感動的な涙だった。5日のJ1最終節、横浜F・マリノスのMF水沼宏太(32)はヴィッセル神戸戦で全3得点に絡む活躍。チームを3年ぶりの優勝に導いた。日産時代からチームの右サイドを支えてきた父貴史氏(62)に続く親子2代でのJリーグ制覇。回り道をしながらも「子どもの頃からの夢」をかなえた。

同じ5日、Jの頂点が決まる1時間前に59番目のJクラブが誕生した。JFLの奈良クラブが、J3入りを確定させたのだ。中心選手がDF都並優太(30)。ヴェルディ川崎などで活躍したDF都並敏史氏(61)を父に持つ2世も、苦難の末に「奈良クラブをJリーグに連れていく」夢をかなえた。

都並は、横浜の下部組織出身の水沼と同じように中学から東京ヴェルディの下部組織で育った。U-16日本代表にも名を連ねたが、トップに上がれず。関西大を経て14年にJ3長野パルセイロでJリーガーになった。18年末に奈良クラブへ。父譲りの情熱でチームをけん引してきた。

約30年前の5月15日、Jリーグ開幕戦の国立競技場を思い出す。カクテル光線に照らされて入場した横浜とV川崎。32歳の水沼貴史と31歳の都並敏史がいた。

スタメンに、30歳以上の選手が6人ずつ。横浜MF木村和司(34)川崎DF加藤久(37)…。日本サッカーの冬の時代を支えたベテランたちは、試合前から泣いていた。「いよいよだな」「やっとですね」…。涙で声をかけあった。

技術や戦術を超越して、熱い思いがあふれた。前半28分、互いの闘志がぶつかって、J第1号のイエローカードが出た。右サイドの突破を試みた「技巧派ドリブラー」水沼が「狂気の左サイドバック」都並のチャージにあったのだ。

日産-読売時代から、サイドでの日本代表同士の攻防戦は見ものだった。しかし、この日は特別。プロリーグ発足の高揚感、満員のサポーターへの感謝、そして「自分たちの力でJリーグを成功させる」という使命感。強い「覚悟」が激しいプレーを生んだ。

明るい未来だけではなかった。ブームは去る。経営的に危うさもあった。「時期尚早」と言われ「何年持つか」と危ぶまれた。将来への不安から社員のままの選手もいた。それでも、川淵三郎チェアマンは「今ではなく先、子どもたちが大人になった時のJリーグのために」と走り続けた。

選手も同じだ。過去を背負いながらも、未来のために必死になった。「Jリーグの火を消さない」という「覚悟」があった。子どもが生まれたばかりの水沼や都並にとって、その思いは強かったに違いない。

(水沼)宏太も(都並)優太も、開幕戦の記憶はない。それでも、日本サッカーのためにプレーする父の背中は見てきた。だからこそ、Jリーグが日常となった今でも、特別に熱い思いでJの「優勝」や「昇格」を目指せたのだろう。

あの日から30年、不安を抱えながらも夢と希望を持ち続けた選手や関係者、サポーターの力で、Jリーグは続いている。苦難を乗り越えて全国に広がり、スタート時の10クラブは60にまで、なりそうだ。2世選手がJリーグに「夢」を持てたことこそが、あの日激しくぶつかり合った父親たちの夢でもある。【荻島弘一】

(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「サッカー現場発」)

都並優太(2018年12月12日撮影)
都並優太(2018年12月12日撮影)
水沼貴志氏(左)と都並敏史氏(2000年9月撮影)
水沼貴志氏(左)と都並敏史氏(2000年9月撮影)