川崎フロンターレひと筋18年、MF中村憲剛。今年の史上最速Vは、この男の存在抜きに語れない。昨年11月に左膝を大けが。8月の復帰戦で今季初得点を決め、10月31日の誕生日に決勝弾と活躍。翌日、今季限りでの引退を電撃表明した。だが、帰ってきた大黒柱の存在はチームを勇気づけ、有終の美を飾らせようと結束を深めさせた。復帰を間近で支えた執刀医でチームドクターの関東労災病院・岩噌(いわそ)弘志医師(60)だからこそ知る、中村の強さの根源とは。

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19年11月2日、サンフレッチェ広島戦。岩噌医師は、間違いであってくれと何度も願っていた。負傷交代後、等々力のロッカー室に歩いて戻ってきた中村を出迎えた。4本の靱帯(じんたい)で3本は異常なし。残る1本、前十字は違った。「まさかと思いました。何度も繰り返し診察しましたが損傷の可能性が高いと分かり、がくぜんとしました」。膝の前十字靱帯の手術実績500件以上の名医の見立てに誤りはなかった。

重い空気が流れた、その時だった。「今年はダメか!来年だ!」。快活な声の主は中村だった。「彼の年齢とポジションを考えると、選手生命に重大な影響を与える可能性があると感じました。でも、すぐに気持ちを切り替えた。さすがだと思いました」。20日後、左膝に執刀した。

リハビリ中も、中村の人間力を実感する日々だった。今年5月、川崎Fは医療防護服の代替品となるポンチョ2000着を寄付した。最前線で働く仲間への支援に胸を打たれた岩噌医師は、企画・提案してくれていたのが中村だと知った。新型コロナの影響で通院できず、自宅で孤独なリハビリを続ける時期だった。「自らがあれだけつらい時期にもかかわらず、他の人のことを考えられる人間性には頭が下がりました」。診察はLINE(ライン)動画。明るく、黙々とリハビリをする画面越しの姿に「復帰への思いの強さ、プロとしての芯の強さを感じました」とたくましさを見た。

復帰への日々で忘れられない出来事がある。LINEにこんな文章が届いた。

“自分の存在意義はどこにあるんだろう? プロサッカー選手として”

周囲を心配させないよう、不安や愚痴は表に出さない。自然にそう振る舞うのが中村だった。「あれだけ明るくてポジティブな中村選手の、繊細な一面を見た気がしました」。内面での自問自答が根幹にあった。

20年8月29日、清水エスパルス戦。岩噌医師はローテーション通り、等々力のベンチにドクターとして座っていた。視線の先に、術後初めてベンチ入りした中村がいた。後半32分に301日ぶりにピッチに立ち、8分後にループシュートを決める姿を目の前で見た。メスを入れた、あの左足で。「自分が手術した足で復帰後初得点を取ったシーンを間近で見られた喜びは、一生忘れません」。試合後、中村は「等々力に神様がいるなと思った」と周囲に感謝した。

20年11月1日、午後2時。等々力でのFC東京戦で中村がバースデーゴールをまたも左足で決めたのをベンチで見届けた翌日、中村からLINEが届いた。「引退します」。直接伝えられなかったことを謝罪する言葉も丁寧に添えられていた。岩噌医師は律義な文面を見つめながら「5年前に決めていたとか、彼らしい。お疲れさま」とほほ笑んだ。

膝は完全復活していたと断言できる。岩噌医師の頭には、あと3年から5年はできたという確信と「あれだけのけがをしても日本のトップで何年かやれるところを見せてほしかった」との願望が浮かんだ。だが、すぐに消えた。すぐそばで見てきた中村の笑顔や懸命な姿が脳裏から離れなかった。「コロナでリハビリができない中、痛くてつらい時期もあったと思う。世の中、逆境とかいろいろあるじゃないですか。そういう中でも目標を立てて1歩1歩進んで戻ってきて、復帰戦と誕生日にゴールして、しかもあの感じでスパッと(引退を)決めて。とんでもなくすごい選手だと思いますし人間としてすごすぎる」と回想し、中村の存在意義をかみしめた。「そんな選手に関われたことは人生の幸せです」。【浜本卓也】