アステカの青空に大合唱が響いた。「ハポン!」「ハポン!」。68年10月24日、メキシコ五輪のサッカー3位決定戦。日本は、地元メキシコからFW釜本邦茂が決めた前半の2点を守ったまま終盤を迎えていた。12万人収容のアステカ・スタジアムを埋めた観衆から信じられない声援が沸き起こった。ふがいない地元チームより、必死に守る日本側に声援を送っていた。

後半2分に迎えたこの試合最大のピンチも、日本の冷静な分析力で乗り切っていた。DF小城得達(おぎ・ありたつ)のハンドで与えたPK。メキシコはエースのペレーダがボールをセット。この時、GK横山謙三はもちろん、ベンチの長沼健監督、岡野俊一郎コーチは確信を持った。

岡野 1次リーグでメキシコの試合を全員で見に行っていた。そのときペレーダは右に蹴った。絶対に入れなきゃいけない場面だから、今度も一番自信のある方に蹴ると思った。

予想通り、右に蹴られたシュートをGK横山はしっかりキャッチ。傾きかけた流れを引き戻した。その後もメキシコの波状攻撃に体をなげうって全員で防いだ。

90分を戦い終え、日本は五輪で初めて銅メダルを獲得した。下馬評を覆し、開催国を倒す快挙だった。表彰式では、スタンドの片隅で炎があがった。「アディオス(さよなら)トレジャス」。メキシコ代表監督の名前が書かれた棺おけにファンが怒って火をつけたのだった。

激闘を終えたイレブンは、選手村に帰ると次々とベッドに倒れこんだ。10月14日の初戦(ナイジェリア戦)から11日間で実に6試合。標高2200メートルの高地で試合を重ねた選手たちの疲労は限界に達していた。脱水症で手足のしびれを訴える者、そのまま眠りこけてしまう者…。

釜本 もう疲労困憊(こんぱい)。終わったという安堵(あんど)とメダルを取った喜びとで、みんな放心状態だった。誰とはしゃぐでもなく、倒れこんだままだった。

その姿に涙を流す小柄なドイツ人がいた。デットマール・クラマー。64年東京五輪を前に日本サッカー協会が特別コーチとして招いたプロ指導者は、当時国際サッカー連盟(FIFA)の技術委員としてメキシコ五輪を視察。教え子たちの試合を見守り、選手村に駆けつけていた。

同行した日本人記者を前にクラマーは言った。

「私が来日した最初の会見で言ったことを覚えているか。私は日本の選手の大和魂に出会いたいと言った。今、私の目の前にそれがある。1人が全力を出し切ることはあるが、全員がここまですべての力を出して戦い抜いた姿を見たことがない」。

長沼 クラマーさんは、自分が教えてきたことを選手が分かってくれてうれしかったんでしょう。40年近くたった今でも、クラマーさんは、そのときの話をすると涙ぐむんです。

日本は、この大会から創設されたフェアプレー賞も受賞した。日本サッカー界に刻まれた「アステカの奇跡」は、選手たちから「クラさん」と親しまれた情熱の男なしには、あり得なかった。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

「なぜ外国人コーチなのか」最後の手段クラマー招請に反発の声も/クラマーの息子たち(2)>>