早大2年で東京五輪に出場したFW釜本邦茂は、1得点に終わった悔しさを練習にぶつけた。

釜本 うまくなるためには練習しかない。狙ったところに正確に蹴る。例えば、30メートル離れた先の相手に高さ1メートルぐらいをめがけて蹴る。そこにゴールがあると思ってやった。できるまで毎日ね。

地元五輪でベスト8入りした選手たちは、閉会式まで選手村で、のんびりした日を過ごしていた。だが、ある雨の日、日本協会との契約満了で帰国前のデットマール・クラマーが全員を集めて言った。

「これから練習をやる。試合終了の笛は、次のスタートへの合図だ。東京五輪は終わったが、君たちには次の大会がある」。

釜本の気持ちも同じだった。五輪で世界レベルを肌で感じ、冷めないうちに率先して練習に励んだ。

基本に立ち返り、クラマーとの出会いを思い起こした。京都・山城高2年秋のこと。関西選抜チームの講習会でドイツ人指導者に初めて会った。後に日本協会会長になる藤田静夫に連れられた釜本は、プロの技術に「驚いた」という。

「おい、そこのデカイの」。クラマーに声をかけられた釜本は、投げられたボールをヘディングで返した。今度は自分がボールを投げる。小さな36歳のコーチは、自分より勢いのあるボールを胸元に鋭く返してきた。

釜本 それまで中学の3年間は、理論付けて教えてもらったことがなかった。リフティングなんてやったこともなかったしね。自分にすれば、17歳という一番いい年代で、すべて新鮮にとらえることができた。書いてあるものに書き直すんじゃなく、真っさらなものに書いていったような感じだった。

それ以来、クラマーにたたき込まれたのは個人戦術。look around(周りを見ろ)think before(前もって考えろ)pass and go(パスしたら走れ)。「瞬時にできるようになるまで体に覚えこませた。いい選手になるには、こういう練習をしなきゃだめなんだと言われた」と釜本。ユース日本代表でも活躍、早大では1年で関東大学リーグ得点王にもなった。だが、東京五輪で、自分はまだ国内レベルにすぎないことが分かった。

クラマー 釜本の練習テーマはいつでもシュートを打つこと。私は16歳のとき、ドルトムントの1軍でプレーしていた。練習前、ゴールにバケツをつるして、それを目掛けて蹴ったものだ。昔も今もシュートの正確さは極めて重要なんだ。

釜本の心境にも変化があった。FWとして、貪欲にゴールにこだわった。

釜本 自分は、うまくなるために練習したんじゃない。点を取るために練習したんだ。負けたくない。そのために何をするか。点を取るしかない。

メキシコ五輪へ向け、日本代表は65年3月から東南アジア遠征で再始動した。釜本は香港、バンコク選抜などを相手に4試合連続の6得点。不動の地位を築いたエースをさらに飛躍させるため、当時では衝撃的なプランが水面下で進行していた。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

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