東京五輪まで2年を切った1962年12月、日本サッカー界に激震が走った。日本協会は高橋英辰(ひでとき)監督の退任を決定。実業団の古河電工で選手兼監督だった長沼健を代表監督に抜てきした。コーチには、クラマーの通訳兼アシスタントの岡野俊一郎を昇格させた。

理由は世代交代。高橋は当時46歳。長沼は32歳、岡野は31歳。高橋監督の手腕だけでなく、選手と指揮官の年齢差を懸念したクラマーが協会に進言したという。地元五輪に挑む各種目の指揮体制でも異例の若さ。後のメキシコ五輪銅メダルを生む名コンビの誕生だった。

クラマーはこの件について今でも「それに対するコメントはない」と口を閉ざす。スポーツ紙でサッカー担当記者だった賀川浩は証言する。「クラマーが協会に『若い力で行った方がいい』と提案したことは間違いない。昭和生まれの監督、コーチが誕生したと大騒ぎになった」。

長沼 協会から言われたときは驚いた。岡野に「お前、自信あるか?」と聞いたら「ないよ」って。でも、クラマーさんは言い出したら聞かない人だから「やるしかないか」となった。

実は、岡野は61年にクラマーの薦めで西ドイツで2カ月間コーチ留学している。54年W杯スイス大会優勝監督のヘルベルガーら一流指導者から、コーチ学を吸収した。長沼は28歳で選手兼監督となると、61年に天皇杯、実業団選手権、都市対抗と史上初の3冠を達成。親分肌で、代表でも中心の八重樫茂生、川淵三郎ら古河の選手たちからの人望も厚かった。クラマーはその才能を見抜いていた。

岡野は、遠征の手配から資金運営など1人何役もこなし、1つ年上の長沼をサポートした。特に情報収集力、分析力に秀でていた。メキシコ五輪の際、1次リーグで同組になったナイジェリア、ブラジル、スペインも選手個々の特長を把握し、顔写真に書き込んで食堂に張り出していた。現代の情報社会では想像もできない、地道な人と人とのつながりで得た情報だった。

ブラジルは、学生代表でGKだった仲間が移住していたため、新聞記事を送ってもらった。スペインは、五輪予選の最後に対戦した英国から「前半0-0なら仲間割れする」など情報を入手。問題は初戦のナイジェリアだった。

岡野 あきらめかけていたところに(当時首都の)ラゴスの日本人から手紙が届いた。新聞で対戦を知った大洋漁業(現マルハ)の方で、何でも協力するとあった。とりあえず新聞記事を頼み、映像もお願いした。

初戦の数日前、メキシコ五輪の選手村に8ミリフィルムが6本届いた。ナイジェリアでの壮行試合を現地の運転手に隠し撮りさせた映像だった。「体のこなし方、利き足などが分かった。本当に助かった」と岡野は今でも手紙を大切にしまっている。

クラマーが描いたシナリオ通り、長沼-岡野コンビは東京五輪を経てメキシコ五輪で銅メダル。その後も2人が日本サッカー協会を引っ張っていった。その歩みを見続けた賀川は言う。「クラマーが打った手は後に生きていった。囲碁の名人のように」。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

奇跡の逆転と屈辱の大敗 東京五輪が「世界のカマモト」の原点/クラマーの息子たち(6)>>