大正時代に始まり、太平洋戦争による中断を経て関西に根付いていた大会は、1975年(昭50)度を最後に首都圏に移ることになる。68年メキシコ五輪の銅メダルでサッカー人気が高まり、70年度からはテレビ中継されるようになっていた。高校サッカー60年史には「長年この大会を育ててきた関西の関係者にとっては、移転の理由も、その過程も不本意なものだった」と記してある。

数年前から首都圏移転のうわさは流れていた。関西勢の強さを証明しようと躍起になり、初出場初優勝の快挙を達成したのが、第52回大会(73年度)の北陽(現関大北陽)だった。移転する2年前のことだ。

北陽の練習の厳しさは有名だった。阪急上新庄駅から程近い場所にあるグラウンドは、ハーフコートが52・5メートル。全力に近い8秒以内で走り、帰りは少し速度をゆるめて13秒以内で戻る。足を止めることは許されず2、3本目と続く。一切の休憩なしで、それを100往復。毎日、続いた。70年代はどの学校も鉄拳制裁があった時代。68年度に全国制覇した大阪の強豪・初芝(現初芝立命館)との試合。GKが風の読みを誤り、前に出て失点すると、試合中にもかかわらずゴール裏にひきずり出されて鉄拳を浴びた。

ただ、北陽はめきめきと力をつけた。当時のエースFWだった塩田龍彦(66=現Jグリーン堺社長)はこのように振り返る。

「選手権に出れば大阪でやれるという思いがありました。尼崎、宝塚からも部員が集まっていましたから、みな地元。我々が大阪で勝つんだという気持ちでした」

“日本サッカーの父”と呼ばれたデットマール・クラマーの指導法を取り入れた大商大から、北陽OBが教えに来るようになっていた。過酷な走り込みに加え、世界最高峰の練習を取り入れるようになり、結果とともに自信も芽生えた。73年度の高校総体(インターハイ)で全国準優勝。エース塩田と双子の山野兄弟が得点源で、60年史には「(双子の)兄は主将でゲームメーカー、弟はFW。キャプテンマークを外せばうり二つで相手の目をくらませた」とある。

初出場の選手権は準々決勝の古河一(茨城)戦で双子の弟孝明が得点し、準決勝の相模工大付(神奈川)戦は双子そろってゴールを挙げた。決勝の藤枝東(静岡)戦には塩田が決めて2-1で逆転勝利。「大阪では閑古鳥が鳴く」と揶揄(やゆ)されていたが、長居競技場は超満員。大阪の意地を見せた大会だった。【益子浩一】(つづく)