元日本代表監督のイビチャ・オシム氏が1日、80歳でこの世を去った。哲学的な言い回し、独自の練習法などで「日本代表の日本化」を目指した知将。日本への愛も深く、脳梗塞で倒れて退任後も、その思いは多くの関係者に受け継がれている。数々の証言から、その功績を見つめ直す。

    ◇    ◇    ◇

数え切れないほど繰り返し聞いた言葉があった。「メモをとるな」「人のまねをするな」。03年にコーチを引き連れることなくたった1人、市原(現千葉)の監督として日本に来たオシムさん。その隣で、通訳として約3年半を過ごした間瀬秀一氏(48)の心には今も、2つの教えがしみ込んでいる。

オシムさんの言葉をメモせずに訳すのは大変なことだった。2分、3分と話し続けることも日常。コーチら指導者たちに対しても、要求は同じだった。日本人の感覚では、その日起きたことや先々のための案を書き残しておくことはむしろ大切にしてきた。本当に練習にも手ぶらで来る指揮官に、はじめは面食らった。

隣で過ごすことで、意図に気づいた。「書いたものは、書いた時点でもう古いのだという考えだった」。練習メニューも、事前の打ち合わせから、いざ始まると大きく変更されることも日常茶飯事だった。「選手の顔はどうか。風は、気温は、ピッチ状態は…。そうして練習を作る。前もって書いてできるものではない」。考えることを止めるなというメッセージだった。

書くことも含め、すでにあるものでは満足しないのがオシムさんだった。料亭で出された刺し身について「1枚だけ火を入れてほしい。調理場に頼んでくれ」と言った。他にもサンドイッチを「表面だけ焼いてもらってくれ」と頼んできたこともあった。常に別の見方や可能性を探していた。「人のまねをするな」は、新しい可能性を追い求める思考を持ち続けろという意味が込められていた。

間瀬氏は指導者としてのキャリアを歩み、モンゴル代表監督などを経験して現在は愛知県のワイヴァンFCで中学年代の選手を指導している。当時のメモがないから練習メニューをすべて覚えているわけではないが、オシムさんの哲学やサッカー指導の原理は体の芯にしみついている。「その場や環境、選手の特徴をふまえてトレーニングを組む。弟子が師匠のまねをしている場合じゃない。新しいものをどんどん作らないといけない。『オシムさんはすごかったな』で終わってはいけない」。受け継ぐだけでなく、進化し続ける。それが、そばで過ごした1人としての使命だと感じている。【岡崎悠利】

◆間瀬秀一(ませ・しゅういち)1973年(昭48)10月22日生まれ、三重県四日市市出身。96年に日体大を卒業後、米国でプロ契約。そこからメキシコ、グアテマラ、エルサルバドル、クロアチアでプレーし02年に引退。その後、クロアチアのザグレブ大学でクロアチア語を学び、03年に市原(現千葉)でオシム氏の通訳に就任。その後コーチやスカウトを務め、10年に岡山や東京Vでコーチ、秋田や愛媛で監督を務め、21年4月には日本協会のアジア貢献事業の一環でモンゴルの監督に。同年12月に目の病気のため退任。現在は愛知県内のクラブ「ワイヴァンFC」でU-13世代の監督を務める。

【オシムイズム】あまりの激情に通訳が泣き出した「日本人に大切なことを伝えてくれた」/連載3>>