元日本代表監督のイビチャ・オシム氏が1日、80歳でこの世を去った。哲学的な言い回し、独自の練習法などで「日本代表の日本化」を目指した知将。日本への愛も深く、脳梗塞で倒れて退任後も、その思いは多くの関係者に受け継がれている。数々の証言から、その功績を見つめ直す。

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それは、日本人の目を覚まさせる出来事だった。07年7月9日、ベトナム・ハノイにある国立競技場。

アジア杯3連覇を目指した日本は1次リーグ初戦でカタールと1-1で引き分けた。試合後のロッカー室。オシム監督は激怒した。

「お前たちはアマチュアだ。私はプロだから死ぬ気でやっている。お前たちはそこまでやっていない。今日は6-1の試合だ。ボクシングなら3階級上の力の差を見せつけたはずだ」

気温32度、湿度80%。疲弊しきった選手を厳しく叱りつける。あまりのけんまくに通訳が泣きだし、半分以上は訳すことさえできなかった。途中出場した当時G大阪のMF橋本英郎(42=現おこしやす京都)は、今でも鮮明に覚えている。

「代表戦の厳しさ、国を背負う尊さを、教えてくれる出来事でした。通訳が泣いていましたから。オシムさんは国を背負うことへの特別な感情を持っていた」

その1年前、日本はW杯ドイツ大会で1次リーグ敗退。世界の高い壁を知りながら、まだどこかに慢心があった。甘さを見抜いた上で、肉体的にも精神的にも鍛え上げようとしていた。

就任直後、06年9月のサウジアラビア遠征では16時間のフライトで深夜にジッダ入りすると、空港からグラウンドに直行して午前2時まで練習を課した。ジーコ体制時は普通だった海外遠征でのシェフの帯同も許さなかった。小野剛技術委員長(当時)は「食べ物も練習も、厳しい環境でやっておくと将来、楽になりますから」と明かしている。

志半ばで07年11月に病に倒れ代表監督を退いたが、その遺志は受け継がれた。初招集から継続して招集された橋本は心から言う。

「基本的なことをきちんとやることを求めた人でした。『味方が苦しんでいるのに、そこにおっていいんか?』とか。当たり前のことが練習に入っていた。モチベーターであり戦術家。楽しいという感覚はなかったけれど、オシムさんに教わった選手は長く現役を続けている。日本人に大切なことを伝えてくれた」

時には怒り、小言を漏らすこともあった。日本を強くするために-。【益子浩一】

◆橋本英郎(はしもと・ひでお)1979年(昭54)5月21日、大阪市生まれ。G大阪下部組織から98年トップ昇格。G大阪でACL制覇などを経験し、08年クラブW杯ではマンチェスターUから得点を挙げた。神戸、C大阪、J3長野、J2東京V、J3今治を経て今季からコーチ兼任で関西1部おこしやす京都へ。文武両道を貫き名門天王寺高から大阪市立大卒。日本代表で15試合無得点。173センチ、68キロ。

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