FIFAワールドカップ(W杯)カタール大会1次リーグE組の初戦で、日本が優勝4回の超大国ドイツを2-1で破りました。

森保一監督(54)は会見の最後「歴史的瞬間、勝利と言っても過言ではない」とした上で、同国への感謝を述べていました。

「ドイツには、今回の日本代表26人のうち7人がブンデスリーガ1部、1人が2部ということで、世界トップの激しく厳しいタフなリーグの中で日本人選手が学び、力をつけています」

「その意味では、ドイツには日本の選手を育てていただいているとともに、発展を助けていただいてきました。リスペクトし、感謝しています。ドイツの皆さんは、日本サッカーの発展に大きく貢献してくれました。クラマーさんはじめ指導者の方々、素晴らしい選手も来てくれた。今日は勝利しましたが、ドイツに学びながら日本の良さを発揮して世界と戦えることをこれからも続けていきたい」

尊敬を胸に、W杯では日本初となる逆転勝ち。先制された試合は過去2分け7敗で、通算10試合目にして初めての痛快劇でした。

その決勝点が、森保監督のJ1サンフレッチェ広島時代からの教え子である浅野拓磨というのも感慨深いところです。ドイツ戦の勝利に結びついた、数多くある縁。そのうちの1つが5年前にありました。

17年10月26日。広島を退団したシーズンの森保監督は、ドイツに滞在していました。57年ぶりの東京オリンピック(五輪)男子日本代表監督への就任が決まった節目を“留学先”の同国で迎えていたのです。

まだ薄暗い早朝、協会理事会で決議された日本から正式に連絡が入りました。滞在していたドルトムントで第一声をもらいました。

「これからは応援してくれる方が日本国民全体になります。言うまでもなく責任は重大。自国開催の期待は喜びでも重圧でもあり、身の引き締まる思いです」

後にA代表の兼任監督へとつながっていく1日の始まり。初仕事は、日本の背番号10香川真司が所属していたドルトムントの視察でした。非公開練習の見学許可を取りつけ、欧州屈指のビッグクラブが試合に向けて仕上げていく過程、練習から球際で削り合う姿を目に焼きつけました。たった1人で渡り歩いた欧州で、世界と渡り合うイメージを膨らませていた充電期間でした。

ずっと、心には日の丸があったそうです。選手として93年「ドーハの悲劇」を経験して以来「誇りと責任を持って戦える場所。指導者になってからも、常に日本代表への思いは持ち続けていました」と。

広島で3度のJ1制覇を遂げ「クラブで結果を出さなければ代表から声はかからない、と常に意識してきました」。意味は同じでも「結果を出せば声がかかる」ではなく「出さなければ声がかからない」という言い方で、監督人生の夢を自らに課し、追ってきたのです。

03年にJ1ベガルタ仙台で現役引退した後は、早大か京都教育大への進学や「語学の習得も含めて留学も考えた」そうですが、翌04年に広島の強化部コーチに就きました。

以来1度も仕事が途切れなかったため、S級ライセンス取得時の海外研修以外では、17年7月の広島監督退任後が初めての空白期間となりました。

毎年のよう主力を引き抜かれ、その年だけは17位まで沈んで事実上の解任という憂き目に遭いましたが「やっと勉強できます。見識を深めるチャンスです」と笑顔で、まずは愛息がプレーしていたオーストラリアやニュージーランドを訪れました。

続けて9月、初の“長期留学先”に選んだのがドイツでした。同21日に都内で当時の西野朗技術委員長と極秘接触し、五輪代表監督への意思確認されました。翌22日に単身で渡独。正式な決定は翌月ではありましたが、再び日の丸を背負う可能性が0から1以上になってから初めて会った選手が、愛弟子の浅野でした。

シュツットガルトで1週間、非公開練習やミーティングを見学。浅野には「まだどうなるか分からないけれど、そうなれば、もちろん拓磨もオーバーエージ(OA)候補だから。一緒に頑張ろう」と共闘を呼びかけました。

広島時代の15年、途中出場だけで8得点させたリーグ戦を含め、公式戦16ゴール。Jリーグのヤングベストプレーヤー賞(新人王)に育て、前回18年ロシア大会ではバックアップメンバー止まりだった姿もコーチとして間近で支え「4年後は」と成長を促してきました。

OA枠こそ進展はありませんでしたが、A代表も率いるようになり、いくら批判されようが、信じて招集し続けてきた選手でした。今大会直前の9月に右膝の靱帯(じんたい)が断裂しても。

その浅野と、指導者としての再スタートを5年前のドイツで切りました。

シュツットガルトの後はドルトムント、ケルン、デュッセルドルフ、シャルケなどを視察していました。

「言葉は分からなくても監督の狙いは理解できる。試合から逆算し、どうプロセスを踏んでいくのかを見たくて。シャルケは、おそらくセカンドチームでしたけど、見に行って本当に良かったです。激しく、厳しく、ビビらず、ひるまず『俺の方が上だ!』って、バチバチの球際の攻防を見せてもらいました。誰かが倒れていたってプレーは続くし、この競争を勝ち抜いた選手だからこそ、トップトップのリーグでやっていけるんだなと。サッカーの原点。心が動かされました」

ドイツ戦で同点弾を決めた堂安律が、当時所属していたオランダ1部フローニンゲンの試合を、その中で弾丸的に視察したこともありました。

「放浪の旅というか、その日暮らしというか。できる限り練習と試合を見たくて」1人で、全て自費で航空機や鉄道を乗り継ぎ、携帯電話でホテルを予約して街から街へと移りました。

「先日の宿はシャワーもトイレも共同でしたし、とりあえず電車と飛行機さえ予約できれば何とかなるかなと。大荷物を抱えて階段を上がって、屋根裏部屋で寝た日もありましたね」

その笑顔には充実感が漂っていました。本場の文化や施設に触れるたびに、バイタリティーが増幅する感覚がありました。

「海外にいると、あらためて『日本人』の誇りが強くなりますよね」

1カ月を超えた、再起の欧州行脚。その最中に五輪代表監督となり、覚悟を示しました。

「日本サッカーが長足の進歩を遂げた今、五輪もW杯もトップに食い込むことが使命です。日本サッカーの父と呼ばれたクラマーさんの教え通り『大和魂』を胸に、世界に日本の名をとどろかせたい。2020東京をへて2022カタールに多くの代表選手を送り込むことも重要な任務です」

くしくも、クラマーさんの故郷ドルトムントからの決意表明となりました。

5年後、敬愛するドイツを初めて破った指導者になりました。W杯の優勝経験8カ国に公式戦で勝つのも初めて。会見の締めでは「試合においては、ドイツであっても勝つために戦うことに変わりはありませんでした」と言える、監督自身の進歩もありました。快挙の円陣後には、浅野と5秒間、抱きしめ合いました。

ただ、道半ばです。次は今日27日のコスタリカ戦。18年9月、北海道胆振東部地震で札幌でのチリ戦が中止となり、大阪でのコスタリカ戦がA代表監督としての初陣になりました。3-0で初勝利。南野拓実と伊東純也が代表初ゴールを決めた相手でもありました。

再び縁ある国との第2戦へ、ドイツ戦の勝ち点3を意味あるものとし、歴代最高のベスト8以上へ。森保監督は「ドーハの歓喜」を確定させるまで一喜一憂しない覚悟です。【木下淳】