新型コロナウイルス感染拡大で東京オリンピック(五輪)は延期となった。選手が来夏の祭典で獲得を目指す五輪メダル。各競技でどのような歴史が刻まれてきたのか。「日本の初メダル」をひもとく。

■トラック&フィールド

1928年8月2日。アムステルダム大会で、2つのメダルが誕生した。

織田幹雄は男子3段跳びで優勝。これは陸上界だけでなく、日本人が獲得した初めての金メダルでもあった。優勝記録の15メートル21を記念して、旧国立競技場のピッチ横には同じ長さの「織田ポール」が立てられた。後に織田は自著「跳躍一路」で「私はオリンピックの穴を狙った」と述懐している。3段跳びは1896年第1回アテネ大会で実施された12種目の1つだったが、強豪選手には敬遠された。当時は助走路も硬く、足に大きな負担がかかり故障も多かったからだ。織田の後、32年ロサンゼルスの南部忠平、36年ベルリン大会の田島直人と日本勢が金メダルを占めた。日本の「お家芸」となった。

女子800メートルでは人見絹枝が銀メダルに輝いた。陸上に女子の参加が初めて認められたのが、アムステルダム大会。人見は前年に世界記録を樹立していた100メートルでは決勝進出を逃したが、経験が少なかった800メートルで歴史に名を刻んだ。そのメダルは日本勢女子初だった。当時は大阪毎日新聞社(現毎日新聞社)で新聞記者として勤務しており、女性スポーツ記者の草分けでもあった人見は、銀メダル獲得から、ちょうど3年後の31年8月2日、乾酪(かんらく)性肺炎のため死去した。24歳だった。92年バルセロナ五輪の女子マラソンでは人見と同郷、岡山出身の有森裕子が、日本女子陸上界では人見となるメダルを獲得。その日も、8月2日(現地時間1日)だった。

■マラソン

マラソンの初メダルは暗い戦争の歴史から切り離せない。1936年ベルリン大会。当時、日本は朝鮮半島を統治下においていた。ソウル特別市で生まれた孫基禎が35年に世界記録を樹立した翌年の五輪で、大会記録となる2時間29分19秒2で制覇した。銅メダルも日韓併合により祖国を亡失させられた南昇竜だった。

孫さんの意思とは無関係にレース後、「事件」も起きた。表彰式を報道した東亜日報が、表彰台中央に立つ孫さんの写真からシャツの日の丸を修整し消去した物を発行した。「日章旗抹消事件」。時の朝鮮総督府の逆鱗(げきりん)に触れ、同紙は強制廃刊に。さらに終戦後の50年には朝鮮半島の動乱のあおりを受け、孫さんも避難地の釜山で生か飢え死にかの、極限状態の生活を強いられた。だが、金メダルだけは命代わりのように守り続けた。

00年当時、孫は家族を通じ、「金メダルと記念品などに対する未練は、きれいに断ち切っている。公益機関が末永く安全に保存して、明日の祖国を背負って立つ苗木どもが、そのメダルを眺めながら、大きな夢をはぐくんでくれたら本望である」とコメントしている。アジア初のマラソン金メダリストは戦後韓国籍となり、韓国陸連の会長など陸上界の発展に尽力した。