陸上の男子長距離界をけん引してきた福岡国際マラソンが5日、長い歴史に幕を閉じた。1947年(昭22)にスタートしてから75回。博多駅前には歴代優勝者の足形が飾られ、師走の風物詩として親しまれてきた。過去には世界記録も生まれ、瀬古利彦や宗茂、猛兄弟ら国内トップ選手が日本代表の座を懸けてしのぎを削った。4回の優勝を誇る「ミスター福岡国際」、日本陸連の瀬古副会長(65)が最後の大会を見守り、感謝の言葉をつづった。

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【特集】瀬古、宗兄弟、イカンガー、中山らが名勝負/紙面で見る福岡国際マラソン

最後の福岡、瀬古はいつもと同じようにテレビ放送の解説席にいた。5回出場して3連覇を含む4回優勝。最後となる博多の沿道や平和台陸上競技場のゴールを見つめていた。

「寂しいね。このマラソンに育ててもらった。僕だけでなく、海外も含めて多くのランナーが育てられたと思っているはず。それほど、すごい大会だった」

早大2年の1977年(昭52)、マラソン2レース目で日本人最高の5位。翌78年に初優勝した。モスクワ五輪の代表選考を兼ねた79年大会は競争史に残る名レース。宗兄弟との激闘は語り草だ。

「一番の思い出だよ。途中で宗さんたちに10秒遅れてダメだと思った。でも、逆転することができた。最後まで諦めずに走ることの大切さを学んで、マラソンで戦う自信がついた」

当時、高速コースで気候もいい福岡国際は「世界一決定戦」とも呼ばれた。まだ世界選手権が始まる前、日本だけでなく世界中のトップ選手が参加した。もちろん国内最高峰、世界最高も2回記録された。

「みんな福岡を目指していた。日本だけでなく世界の選手も。それほどの大会で4回勝てたことは、今でも誇りに思っている」

瀬古と宗兄弟にはモスクワ五輪での表彰台独占も期待された。しかし、ボイコットで幻に。同五輪金のチェルピンスキー(東ドイツ)を迎えた同年の福岡で瀬古が3連覇、宗猛が4秒差の2位。日本マラソンの実力を示した。瀬古はロス五輪代表のかかった83年もイカンガー(タンザニア)を激闘の末に下し優勝した。

「大会プログラムの最後に載っている歴史は、日本と世界のマラソンの歴史そのもの。(72年ミュンヘン五輪金の)ショーター(米国)の4連覇とかね」

世界のマラソンが市民参加型が主流になる中、エリートだけで争う福岡国際は時代から遅れた。市民参加型へ移行も模索されたが実現せず、歴史を終える。

「残念だけど、時代の流れなのか。何万人走る市民レースが盛んになって、エリートだけのレースは難しくなってきた。マラソンも新しい時代だね」

1947年に「日本マラソンの父」金栗四三の発案で始まった。「世界で勝つために世界的な大会開催を」という思いは形になり、脈々と引き継がれてきた。

「金栗さんを始め、開催に尽力した陸上関係者の方や福岡の方、みなさんに感謝したい。本当に素晴らしい大会で、日本のマラソンを支え続けてくれた」

この日、期待されたタイムは出なかったが、細谷恭平が2位に入った。24年パリ五輪代表選考会となる、23年秋予定の「グランドチャンピオンシップ(MGC)」出場権を4人が獲得。福岡の最後が、パリへのスタートになった。

「強い日光で体力を奪われて、脱水症状を起こす選手もいた。そんな中で細谷の粘りは立派。収穫も多かった。最後の福岡が、パリへの第一歩になった」

「ミスター福岡国際」の瀬古は少し寂しげならも、日本マラソンの明るい未来を信じて言った。【荻島弘一】

◆福岡国際マラソン 戦後間もない1947年(昭22)に日本初の五輪マラソン選手、金栗四三の故郷熊本で開催された。五輪を夢見て集結した33人のランナーが金栗の号令で走りだしたのが始まり。54年から海外選手を招待する国際大会となり、福岡での開催が定着したのは59年から。世界最高記録2回、日本最高記録8回が誕生している。昨年10月には世界陸連から、顕著な実績を残した先人や競技会をたたえる「ヘリテージ(歴史遺産)」に選ばれている。

<福岡国際マラソンの名勝負>

◆第33回(1979年12月2日)

(1)瀬古利彦(早大)2時間10分35秒(2)宗茂(旭化成)2時間10分37秒(3)宗猛(旭化成)2時間10分40秒

瀬古、宗兄弟による勝負は平和台へと持ち込まれ、残り200メートルで瀬古がスパートして優勝。3位の宗猛までがモスクワ五輪代表に内定した。

◆第37回(1983年12月4日)

(1)瀬古利彦2時間8分52秒(2)ジュマ・イカンガー(タンザニア)(3)宗茂

先頭で集団を引っ張ったイカンガーが39キロで飛び出すと瀬古が追った。ラスト100メートルで逆転し、4度目の優勝を飾った。

◆第41回(1987年12月6日)

(1)中山竹通2時間8分18秒(2)新宅雅也(3)ヨルグ・ペーター(東ドイツ)

ソウル五輪代表選考会は「福岡一発勝負」とされた中、瀬古が左足剥離骨折で欠場。中山が瀬古に「はってでも出てこい」という趣旨の発言をし、話題となった。中山が前半から独走し、大会タイで優勝した。

◆第54回(2000年12月3日)

(1)藤田敦史2時間6分51秒(2)李鳳柱(韓国)(3)アブデラ・ベハル(フランス)

28キロすぎでアトランタ五輪銀の李が遅れる中、アベラ(エチオピア)と藤田の一騎打ち。藤田が終盤に独走し、大会の日本人最高記録を樹立。

◆第57回(2003年12月7日)

(1)国近友昭2時間7分52秒(2)諏訪利成(3)高岡寿成

アテネ五輪代表選考会の初戦。国近が40キロ付近で先頭に立ち、残り800メートルで諏訪を退け、当時の日本歴代6位タイでゴールした。

◆第65回(2011年12月4日)

(1)ジョセファト・ダビリ2時間7分36秒(2)ジェームス・ムワンギ(3)川内優輝

ロンドン五輪代表選考会初戦。日本人争いが注目され、川内は39キロすぎで今井と互いに前へ出る根性比べ。鬼の形相でスパートし3位。