古豪復活に挑んできた思いを、走りに込めた。

1月3日の第99回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)復路。関東学生連合のアンカーを務めた慶大・貝川裕亮(4年)は、20位相当でゴール地点へ駆け込んできた。優勝した駒大がゴールしてから24分が経過していたが、東京・大手町にはたくさんの人が待っていた。「沿道の声援があって、ほんとうにうれしかったです」。格別の舞台だった。そして、あらためて思った。ここは目指す価値がある場所だと。

貝川は岐阜県八百津町で生まれ育った。八百津中ではバスケットボール部に所属したが、進学した美濃加茂高では陸上部に入部。同校初の全国高校駅伝への出場を目指した。

「慶應箱根駅伝プロジェクト」のニュースに心が躍ったのは、高校2年への進級を控えた頃だった。

慶大は箱根駅伝第1回大会にも出場した伝統校。1932年(昭7)には総合優勝を果たしたが、94年を最後に本大会出場から遠ざかっていた。そんな中、17年に創部100周年を迎えたことを機に、24年の第100回大会出場へ強化に乗り出すこととなった。

貝川は胸がうずいた。「『ここだ!』ってビビッときました。慶応が箱根に出るなんて、めちゃめちゃすごいなって」。

思いが明確に定まったのは、その1年後。高校2年時の3月に、慶大・保科光作コーチが高校へはるばる足を運んでくれた。日体大で04年から4度箱根駅伝を出走した名ランナーは、都大路にも出たことがない自分に対し、本気で向き合ってくれた。

「いずれ必ず出場する。それが何年後になるかは分からないけど、僕は本気で目指している」

冷たい春の風を浴びながら、真剣な瞳でそう言われた。

貝川は強く胸を打たれた。「自分も復活の第一人者になれたらかっこいいな」。美濃加茂高では、全国高校駅伝への出場を果たせなかったが、慶大で夢の続きを描くと決意を固めた。

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ただ、箱根への道のりはたやすくなかった。入学した19年以降の予選会は、27位→19位→19位と推移。本大会出場ラインの10位以内へ近づいてはいたものの、殻を破りきれない。推薦制度がなく、入部希望者は一般入試やAO入試を受験する必要があるという点も、差が埋まらない要因にあった。

その一方で、着々と成果も表れ始めた。チームからは21年に杉浦慧(当時3年)、22年に田島公太郎(当時1年)が、関東学生連合(関東学連)のメンバー入り。ともに箱根駅伝を出走した。

貝川は2人の姿がひときわ輝いて見えた。心のどこかで「学連で出場を目指すのが現実的かな」ともよぎった。しかし、大会後に2人の話を聞くと、思い直した。「本当に素晴らしい場所だった。でもここは、チームとして目指すべき舞台だよ」。チームで目指すべき舞台-。その言葉が“復活の第一人者に”という思いをよみがえらせた。

4年生での悲願達成を目指し、8月には1カ月で900キロ以上を走破。脚力とスタミナを強化した。チューブを使ったエクササイズも継続し、大きなケガをしなくなった。9月からはチーム内で嗜好(しこう)品の摂取禁止も徹底した。

保科コーチからの「俺はどんなチーム状況でも今年の箱根は諦めない」という言葉にも勇気づけられた。「どれだけでも大波乱は起こせる」と貝川。箱根に返り咲くために。覚悟を胸に、4度目の箱根予選会に挑んだ。

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22年10月15日。青空が広がった東京・立川の国営昭和記念公園。貝川は「人生で初めて100%を出せた」と断言できるほどの走りを見せた。ただ、なかなかチームメートのタイムが伸びていないこともわかっていた。

不安な思いで迎えた結果発表。続々と歓喜の声が上がる中、慶大が10位までに読み上げられることはなかった。26位に終わり、本大会出場圏内へ18分07秒の差があった。目標にはほど遠い結果。貝川は人目をはばからずに泣き崩れた。涙がぼろぼろこぼれた。

この日、一段と大きな歓声が響いたのは、55年ぶりに本大会出場を決めた立教大だった。くしくも慶大と同じく、100回大会出場への強化事業を推進したチームだった。

「先を越されました。意識しすぎているだけかもしれないですけど、自分たちは力が及ばなくて。悔しさはとても感じました」

悔しさとかすかな羨望(せんぼう)を抱く中、チャンスは巡ってきた。関東学連のメンバー入りが決まったのだ。

しかし、連合チームの選手の実力は拮抗(きっこう)していた。出走できる保証はなく、1人で練習も継続しなければならない。

「しんどいなぁ」。つい弱気になった。大会前の練習では、目標タイムを大幅に外したこともあった。

見かねた保科コーチから、活を入れられた。「今のままだったら、走っても、走らなくても後悔するぞ」。

4年半前と同じだと思った。高校2年生の自分へ「本気で目指している」と言った時と変わらぬ熱量で、保科コーチは導き続けてくれている。

「正直なところ、走らなかったら意味がないと感じていたんですけど。でも、十数年間の全てを懸けて、箱根に向けて全力で準備する姿も後輩に見せられるかなって」

十数年間の全てを懸けて-。練習に取り組む後輩たちの傍らで、日吉の陸上競技場を黙々と走り続けた。

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1月3日の復路。貝川が託されたのは、アンカーだった。

胸元に慶大の「K」のマークが刻まれた白地のユニホームを身にまとい、鶴見中継所から走りだす。公式記録として残らなくても、懸命に腕を振り続けた。

東京・大手町のゴールテープへの直線。沿道を埋め尽くしたファンに見守られながら、10区の23・0キロを走りきった。古豪復活の第一人者にはなれなかった。思い描いていたカタチでの箱根路ではなかったかもしれない。それでも、晴れた表情でかみしめた。

「今日は101%の力が出せました。僕の走りが後輩たちにつながるとうれしいです」

大学で選手から退き、春からはトヨタ自動車陸上部のマネジャーに就く。保科コーチのような熱量をもって、同部に進む駒大のエース田沢廉らを支える。貝川は前を見据えて、はっきりと言った。

「1位を目指すチームのために、僕の駅伝への情熱を注いでいきたいです」

夢を追い続ける貝川の姿。それはきっと、慶大が復活するための礎となっている。【藤塚大輔】

◆貝川裕亮(かいがわ・ゆうすけ)2000年10月20日、岐阜県八百津町生まれ。八百津中ではバスケットボール部に所属。3年時は都道府県対抗駅伝で2区出走。美濃加茂高3年時の東海高校駅伝は7区区間賞。好きな作家は同じ岐阜県出身の米澤穂信。166センチ、50キロ。