「プロレス禁止」。1977年(昭52)の年末だったと記憶している。中学生だった私たちは、一方的に担任教師に通告された。

当時、休み時間になると級友と教室でプロレスに興じた。テレビを見て覚えた技を掛け合い、机の上から跳んだ。イスやチョークが凶器だった。私はよりリアル感を出すため、額に赤チンを塗った。それが洗っても落ちず、教師にひどく怒られた。

いつも机やイスが乱れ、黒い制服が灰色によごれた。もっとも私たちだけが特別だったわけではない。どのクラスも同じような状況で、この時代の小中学校では日常的な風景だった。それほど、男の子たちはプロレスに夢中になった。

あの頃、プロレスは個性派の怪物たちが、壮絶な闘いを繰り広げる大活劇だった。額から血を流し、フォークで相手を刺す『黒い呪術師』アブドーラ・ザ・ブッチャーはゾンビに見えた。身長223センチ、体重230キロの『大巨人』アンドレ・ザ・ジャイアントは雪男のようだった。生傷男、鉄の爪、人間発電所、白覆面の魔王……ニックネームを聞いただけでドキドキした。

専門誌で紹介されたプロレスラーの浮世離れした逸話も、子ども心を引きつけた。ニワトリを10羽もたいらげた。一晩で10ダースのビールを空にした。バケツ3杯分も流血した。口から火を吹いた。牛乳を5ガロンも胃袋に流し込んだ……1ガロンがどれほどの量なのかも知らなかったが、妄想は無限大に広がった。

確かブッチャーはアフリカのスーダン出身で、ライオン狩りの名人で凶暴極まりないという触れ込みだった(実はカナダ出身)。『囚人男』ザ・コンビクトは米ニューヨークの刑務所を脱獄して来日したという経歴で、覆面に囚人服姿で羽田空港到着ロビーで大暴れしている写真が新聞に掲載された。今考えると、そんな人間が税関を通過できるはずもないが、私は何の疑いも持たなかった。

そんな強烈な個性を持つ怪物たちが、毎週末、ゴールデンタイムの午後8時から、テレビを介してお茶の間に登場した。法律で禁じられている殴り合い、流血、凶器攻撃が、無法地帯と化したリングの中で平然と繰り広げられる。見ていると、社会生活で抑制されている人間の本能が刺激されて、興奮した。

スポーツとはいえず、ドラマでもない。現実と虚構の奇妙な境界線に引きずり込まれた。その時間だけは、窮屈な日常から解放されて、何とも不思議な夢心地にとりつかれた。それこそがプロレスの魅力だった。

その大活劇の主役が、アントニオ猪木とジャイアント馬場だった。2人は壮絶な闘いの末に、最後はお決まりの必殺技で怪物たちを仕留めた。まるで、子どもたちが夢中になった、あの『ウルトラマン』や『仮面ライダー』の人間版である。時代は勧善懲悪の時代劇ドラマの全盛期。あの頃の日本人の嗜好(しこう)にも合致したのだと思う。

家族がちゃぶ台を囲んで、だんらんを楽しみながらテレビを見ていた時代背景にも背中を押され、プロレスは大衆の高い支持を得た。間違いなく、プロ野球や大相撲とともに、日本特有の『大衆文化』として定着していた。だからアントニオ猪木と、ジャイアント馬場は、プロレスの枠を超えた大衆のヒーローになったのだと思う。

10月1日、アントニオ猪木の訃報に接して、あの昭和のプロレスの記憶が、鮮明によみがえってきた。そして、スポーツや娯楽の選択肢が少なく、インターネットもなく、海外の情報を得る手段が乏しく、コンプライアンスも緩かったあの時代が、猪木と馬場を大衆のヒーローへと押し上げる大きな追い風になったのだとあらためて思った。

平成に入ると家族だんらんでテレビを囲んだ時代は終焉(しゅうえん)を迎え、ビデオや(家庭用)テレビゲーム機が普及。子どもたちはプロレスを上回る「バーチャルファンタジー」なゲームに夢中になった。視聴率の低下により、プロレスのテレビ中継も深夜枠に移行。そのことで最大の支持者だった子どもたちのプロレス離れが加速した。Jリーグが開幕し、衛星放送を通じて大リーグや欧州サッカーなどの海外スポーツも国内に広く浸透。大衆の嗜好(しこう)も多様化した。

今年9月18日、日本武道館で全日本プロレス50周年記念大会を取材した。かつて花道に群がっていた子どもたちは、姿を消していた。一方で若い女性客の多さに驚いた。試合は観客席になだれ込む場外乱闘も、凶器攻撃も、流血もなく、プロレスラーたちは総じてスマートで、派手な大技も多彩で実に洗練されていた。

そこは、猪木や馬場のいたあの怪しげで、野蛮で、殺気に満ちていた昭和のプロレス会場とは、明らかに異質な空間だった。

プロレスも時代とともに、移り変わってきたのだ。どんなものにだって栄枯盛衰はある。教師から禁止令が出た、あの教室のプロレスから、もう45年の歳月が流れたのだから。【首藤正徳】(敬称略)(ニッカンスポーツ・コム/コラム「スポーツ百景」)