伝え方ひとつ違うだけで、相手の心にふと刻まれることもある。

 そんなことを00年シドニー・オリンピックの女子マラソン金メダル高橋尚子さん(46)が子どもたちを指導する姿を見て思った。

 5日、横浜市内であった「JA全農 チビリンピック」のミニマラソン。ゲストでイベントを盛り上げた高橋さんは、スタート前の小学生に「スタートラインは踏まないこと」と伝えた。

 これだけなら、ただの注意事項。しかし、その後「国際大会ならば失格になるんですよ」と続けた。世界の基準が含まれた言葉には説得力が宿っていた。素直に教え方がうまいなと考えさせられた。

 その真意を高橋さんに聞くと「そんなところをよく見てましたね」と笑ってから、話してくれた。

 「ただ体を動かすだけでなく、勉強できる機会でもあると思うんです。私たちが普段、気を付けていることをちょっと教えてあげるだけで、トップ選手の気遣いや、オリンピックではこうなんだと知ることをできる。プロの世界を一緒に体験できる瞬間を持って欲しいと思っています」

 才能が開花する前は、教員志望だったという。そんな金メダリストの言葉、行動を回顧した時、もう1つ聞いてみたいことがあった。

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 高橋さんは名古屋ウィメンズなど国内の主要女子マラソン時、テレビ解説を務めている。大会前に実施される会見では報道陣の席に座り、登壇した選手に必ずあることを質問する。

 「自信を持つことができた練習は何ですか?」

 毎回、毎回だから理由が気になっていた。聞いてみると、高橋さんは丁寧に説明してくれた。

 「選手はよく『何分を出したい』『優勝したい』と意気込みます。でも重要なのは『何で優勝できると思うか』『何が自分は一番強いと思うか』。目標への裏付けが具体的にあるか、ないか、では全然違うと思います」

 その哲学。自身の経験から由来する。

 シドニーで金メダルを獲得した当時。高橋さんは日本一といわれた小出義雄監督(79)の猛練習に加えて毎日、朝と昼の練習後、それぞれ約1時間、距離にして合計20キロ以上の自主練習を重ねていた。また腹筋は朝1000回、昼1000回と毎日2000回以上。女性には非常識とされた標高3500メートルの超高地トレーニングも敢行。呼吸困難に陥ったこともあったが乗り越えた。

 積み重ねた練習は、確固たる自信となった。スタートラインに立った時の心境を高橋さんは振り返る。

 「一番走ってきたという自信がありました。練習に後悔がなく、前向きな気持ちでいました。カモシカのような脚のケニアやエチオピア選手にスピードは負けるかもしれない。でも泥くさく、はってでも行くようなスタミナはついているぞと。後半苦しくなった時も、ぶれない体幹を鍛えてきたぞと」

 勝てる根拠があるから、負ける気など毛頭なかった。「何げなく取れたメダルなんてオリンピックではないと思うのです」と念を押す。注目度も重圧も桁違いの舞台だ。「100%で戦うことを意識せず、80%でも自分は勝てるんだという気持ちでいることが大切」と説く。

 トレーニングや道具は日々、急速な変化を遂げるが、先人のドラマ、経験、メンタリティーも今へ通じる。学べる材料は実に多い。勝者には、勝者たる理由がある。

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 20年夏には東京オリンピックがやってくる。残り2年は、多くのアスリートにとって、競技人生が凝縮された時間となる。その中で生み出されるドラマ、魂が揺さぶられる言葉をつむぎながら、心に響く記事を届けたい。【上田悠太】


 ◆上田悠太(うえだ・ゆうた)1989年(平元)7月17日、千葉・市川市生まれ。明大を卒業後、14年入社。芸能、サッカー担当を経て、16年秋から陸上など五輪種目を担当。