新型コロナウイルス感染拡大で東京オリンピック(五輪)は延期となった。選手が来夏の祭典で獲得を目指す五輪メダル。各競技でどのような歴史が刻まれてきたのか。「日本の初メダル」をひもとく。

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日本の重量挙げと言えば「三宅家」。12年ロンドン、16年リオデジャネイロと2度のメダルを獲得し、5度目の五輪を目指す三宅宏実(34=いちご)が現役で活躍中だが、その伯父にあたる三宅義信(80)こそが、開拓者だった。1960年(昭35)のローマ大会で手にした銀メダルが日本初の偉業になる。

日本として3回目の参加だった。9月7日、バンタム級に出場した義信は瀬戸際の戦いを強いられていた。「いちかばちか、135キロに挑戦したのですが、一時はどうなることかと目がくらむ思いでした」。試合直後に振り返った。

プレスとスナッチで前大会(メルボルン)覇者のピンチ(米国)に10キロ引き離され、続くジャークでの選択での焦りが裏目に出た。合計重量での勝負。自己記録に近い135キロから挑戦して140キロを超えていきピンチに並ぶ作戦には、やはり無理がにじむ。1回目が尻もち、2回目は腰を切らないうちに後方にひっくり返った。

迎えた最終3回目。挙げれば銀メダル、失敗すれば記録なしで失格という大勝負。しゃがんだ姿勢からバーベルを持ち上げ一気にのど元まで。わずかに足がぐらつき、顔面を朱に染めながらも頭上に差し上げて、勝負を制した。

競技歴はわずか4年だった。1956年メルボルン大会の重量挙げで、福島県の古山征男が8位に輝いたことを伝える一報に目を見張った。当時は隣県の宮城県で柔道に打ち込む高校2年生。「自分も」と転向を決断したのが人生の転機だった。貧しい農家に生まれた7人兄弟の三男。「自由はもらうものではなく、作っていくものだった。お金がないから綿あめやキャンディーも食べられない。でも食べたことがないというコンプレックスはある。何とかして食べたい。田畑の仕事をしたおかげで、足腰は野性的に鍛えられた。ハングリー精神にも恵まれ、人が10動かしたら100動かしてきた。人一倍仕事をやってきたことが筋力になった」と振り返る。

半年の経験で高校選手権で入賞し、すぐに国体・少年の部でも優勝を飾った。半ば勘当の形で東京の法大に進学し、ローマ五輪時は2年生だった。それが初の国際舞台。「試合運びや精神面の統一の仕方が分からなかった。9本の試技中3本しか成功できなかった。5時間の戦い方は知っていても9時間の戦い方は知らない。金メダルを取れる力を持ちながら、銀になってしまった。それでも『参加することに意義がある』ではなく『勝つことに意義がある』と考えるスタートの試合になった」。

64年東京大会、続くメキシコシティー五輪と日本人金メダル第1号に。メキシコでは銅メダルの弟義行とともに表彰台に登った。その弟の娘が宏美にあたる。