東京オリンピック(五輪)柔道男子66キロ級代表決定戦から20日で1週間が経過した。19年世界王者の丸山城志郎(27=ミキハウス)と17、18年世界王者の阿部一二三(23=パーク24)は、日本柔道史上初の「ワンマッチ」で決着をつけた。柔道史に残る24分間の死闘は、国内外で大きな感動を呼んだ。

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敗者となった丸山が貫く「美しい柔道」の原点は、小学生時代にあった。丸山は小3の頃、92年バルセロナ五輪男子65キロ級7位の父顕志氏(55)の仕事の都合で、横浜市の名門「朝飛(あさひ)道場」に半年間“短期留学”した。男子81キロ級で世界ジュニアを制した兄の剛毅(28=パーク24)や16年リオデジャネイロ五輪男子100キロ級銅メダルの羽賀龍之介(29=旭化成)らトップ選手たちと切磋琢磨(せっさたくま)し、心身を鍛錬した。

指導した朝飛大館長(57)は、丸山の逆算思考に驚愕(きょうがく)したという。「8歳で五輪、世界王者になるために何をすべきか考えていた。しっかり目標設定して、目の前の結果よりもその先を見ていた」と当時を思い返した。

道場の指導員も務めた顕志氏の助言などもあり、技のキレを徹底。この頃から「美しく勝つ」をテーマに掲げていた。試合の勝ち方や「日本刀のような鋭さ」と称される内股の形などにもこだわり、妥協は一切許さなかった。将来の夢をかなえるために、修行の日々を送った。道場の稽古は週5日午後4時30分から同9時過ぎまで。幼稚園、小学生、中学生と3部構成だったが、丸山は毎日3部通して5時間以上の稽古に励んだ。

朝飛氏は言う。「稽古が生活の一部のようだった。お兄ちゃんら上級生の強い子たちと組むとキラキラしていた。勝負への気構えや貪欲さなどは別格だった。城志郎の才能は目標に向かって突き進めることで、そこが昔から最高だった」。

恩師は現在、ワンマッチの映像を連日見返し、指導する子どもたちのために研究を重ねている。決着までの両者の細かな攻防、形勢逆転するコンマ数秒の動きなど技術的なことはもちろんだが、それ以上に大きな学びがあったという。「勝負は気持ちなんだと改めて強く感じた。両選手とも責任感が強く、24分間の戦いを見る度に、涙が出てこみ上げてくるものがある。勝敗は本当に紙一重で差がなく、技術・精神ともにまさに世界一の戦いだった」と2人をたたえた。

27歳の教え子には、新たな目標となる24年パリ五輪に向けてこう伝えた。「次の戦いは始まっている。まだ、夢は終わったわけではない。城志郎、ここからだ」。朝飛氏は、数々の試練を乗り越えてきた苦労人のさらなる成長に期待を込めた。【峯岸佑樹】