1964年東京五輪の体操女子団体の銅メダリストで、元参議院議員で国家公安委員長などを務めた小野清子さんが13日に死去した。85歳だった。自民党が18日に発表した。58年に結婚した夫の小野喬さんと夫婦で60、64年と五輪2大会連続出場。特に東京大会は2人の子供を抱えるママさん選手として銅メダルを獲得した。86年の参院選に自民党から出馬してメダリスト初の国会議員となり、07年の政界引退まで内閣府特命担当大臣などを歴任。『サッカーくじ法』成立の中心的な役割を担うなど、スポーツ行政に尽力した。

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『ママさんアスリート』の先駆けだった。58年に東京教育大(現筑波大)の先輩で4歳上の喬さんと結婚。60年ローマ五輪に夫婦そろって出場した翌年に長女が生まれ、63年には長男を出産。小野さんは引退するつもりだったが「東京でメダルを」と周囲に説得され、64年東京五輪は2児の母として出場した。

当時、子供を預ける施設は少なかった。秋田から上京した母に1歳の長男の面倒を見てもらったが、3歳の長女は練習場へ連れていくことが多かった。00年の本紙の取材で小野さんは「跳び箱の最上段を逆さにして、その中で遊ばせていました」と振り返っていた。そんな苦労も銅メダルの発奮材料になったのかもしれない。

秋田市の久保田中で体操を始め、秋田北高2年で出場した52年の山形国体で、模範演技のため来場した同年のヘルシンキ五輪代表の喬氏と知り合った。その後、喬氏に熱心にスカウトされて東京教育大に進学。卒業した58年に結婚した。「別々に練習していても同じ会場ならお互いにチラチラ見ていました」と喬氏は本紙の取材に明かしていた。

引退後は夫と二人三脚で、日本の民間スポーツクラブ第一号となる「池上スポーツ普及クラブ」を東京都大田区に創設。学校体育以外での青少年の体づくりと、スポーツの普及が目的だった。幼児から成人、選手育成まで目的に応じたコースを設置。88年ソウル五輪代表の小西裕之ら日本代表選手も輩出した。

86年7月、スポーツ施設の充実と改善を目指して参院選に自民党から出馬。五輪メダリスト初の国会議員として内閣府特命担当大臣など要職を歴任した。特に98年の『サッカーくじ法』の成立には中心的な存在として尽力した。totoの本場イタリアを喬氏と自費で視察。日本では反対の声も根強かったが「スポーツ振興の財源になる」と粘り強く訴えた。

16年には国際オリンピック委員会(IOC)から五輪運動の発展に寄与したとして『五輪オーダー(功労章)』が授与された。2度目の東京五輪について小野さんは14年に本紙にこう語った。「“被災地のため”なんておこがましい。磨いた技術を試合でしっかりと出す。その結果、いい成績が残せれば被災地に元気が届くかもしれない。最高の努力が恩返しになるの」。コメントにはスポーツの本質が凝縮されていた。

日本体操協会の遠藤幸一常務理事 (09年に死去した父幸雄さんは64年東京五輪金メダル)父が亡くなった時も思いましたが、チャスラフスカさんらと上(天国)で楽しくやれているのではないか。東京五輪を成功させて、(天国から)見届けてもらいたい。