1964年(昭39)、アジア初のオリンピックが東京で開催された。日本にとって、敗戦から復興した象徴となるイベント。東海道新幹線建設など、1兆800億円がかけられた「国家事業」だった。世界の舞台で日の丸戦士が勝つ-。一喜一憂する国民から最も熱い声援を送られたのは「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーボールチームだった。

10月23日、東京・駒沢屋内球技場。日本対ソ連の一戦は、勝ったほうが優勝となる大一番だった。4500人がつめかけた会場は超満員。熱気に包まれる中、大松博文監督(当時43歳)と「魔女」は、悲鳴に似た歓声で迎えられた。午後7時37分、決戦の火ぶたは切られた。

白の上着、緑のパンツ。日本はセッター河西昌枝にライト宮本恵美子、半田百合子と松村好子の両センターに、エースは谷田絹子と磯辺サダ。不動の6人がコートに立っていた。「力のソ連」に試合開始からパワフルに攻められたが、「技の日本」はフェイントや巧みな攻撃などで持ち直す。第1セットを15-11、第2セットも15-8で奪った。第3セット。13-6とリードしたところで、レシーブのお見合いが出た。今までなかったミスに、主将の河西は大松の言葉を思い出した。

河西「試合前、先生(大松)に『いまさら言うことはない。勝とうと思うな。勝てるようにやってきたのだから』と言われていた。『勝てる』と思ったらスキが出た。冷静さを失わないように、と思いました」。

ソ連に追い上げられたが、最後は宮本の変化球サーブに相手レシーブが乱れ、オーバーネットで決着。午後9時1分、日本女子としてはベルリン大会水泳の前畑秀子以来28年ぶり、球技としては五輪史上男女初の金メダル獲得の瞬間だった。

河西「泣くよりも、ホッとした気持ちのほうが強かった。でも、公式記録にサインする時は、手の震えが止まりませんでしたね」。

泣きじゃくる選手の中で河西だけは涙をこらえ、優しく選手の肩をたたいていた。表彰式では胸の金メダルを誇らしげに右手で挙げ、笑顔で観衆に応える。ロイヤルボックスでは、滞在予定を1時間延ばした美智子妃が拍手を送っていた。

胴上げされた大松の目は濡れていた。「これは勝った喜びの涙でなく、苦しい訓練に耐え抜いてくれた選手たちへの感謝の涙です」と声を詰まらせた。感動のシーンは、ブラウン管を通して日本中を熱狂させた。瞬間最大視聴率は66・8%。スポーツ中継として、いまだに破られていない歴代最高の数字だ。

河西「一生懸命にやった先に金メダルがあった。そういった意味でも金メダルに勝るものはありません。このメダルが今までの43年間、私を支えてくれた。家族には『私が死んだ時、棺おけには金メダルだけ入れて』と言ってます。

悲願を達成した「魔女」12人のうち、10人の選手と大松がニチボー貝塚の所属だった。「鬼」と呼ばれた大松のもと、猛練習を続けたニチボーは金字塔を打ち立てる。五輪を挟んで6年8カ月。258連勝という大記録を残したのだった。(つづく=敬称略)【近間康隆】

【大松の「日本一苦しい練習」/ニチボー貝塚バレーボール部(2)】はこちら>>