常に15人を超える部員がいた日紡貝塚だが、監督の大松博文はメンバーの固定にこだわった。「1人1人の力量では勝てなくても、バレーはチームで戦うもの。6人の力で勝てばいい」。これ、と決めた選手は徹底的に鍛え抜いた。長時間の練習は、基本の反復とコンビネーションの精度を上げることに費やされた。レギュラー6人は常に一緒に行動させ「目と目で通じ合う」関係を築かせた。

「試合にはどんな体調で臨むかわからない」と病気で休むことは許さなかった。「大事な試合前に虫垂炎になったら困る」という理由で、選手が腹痛を訴えると、できるだけ盲腸を切らせた。宮本恵美子が肋骨(ろっこつ)にヒビが入った時も「ばんそうこうを張っておけば治る」とすぐにコートに立たせ、周囲をヒヤヒヤさせた。

一見、むちゃくちゃに見える根性論だが、実は緻密(ちみつ)な選手管理を行っていたのだ。故障や体調不良の選手が駆け込んでいたのは、岸和田市の寺田病院。まだチームドクターがいない時代に大松は、同病院院長である白旗信夫をチーム専属医としていた。

それだけではない。診察を終えた選手が体育館に帰ってくるまでの間に、こっそり病院へ電話して症状を確認。「患部をしっかり固めろ」「長時間の練習はダメだ」など白旗の指示に従い、決して無理をさせることはなかった。白旗は生前「大松は常に心と科学の調和を考えていた。選手全員の綿密なカルテをつくっていた」と語っている。

指揮官の考えを、選手も十分に理解していた。代表ではコーチも兼任していた主将の河西昌枝は言う。「いつも『この6人で戦うんだ』と思っていた。ほかの5人に迷惑がかかるから、練習を休みたいとは思わなかった」。その言葉を裏づけるように、河西は自らを襲った不幸にも驚くべき行動をとった。

東京五輪まであと3カ月に迫った64年7月15日。欧州遠征から帰国した河西は、父・栄一が危篤状態であることを知らされる。故郷山梨で2時間ほど見舞っただけで、すぐに貝塚へ戻った。21日から五輪へ向けた初の合同合宿が行われるからだった。4日後の19日朝、栄一は帰らぬ人となる。河西はその日の夜行列車に乗って山梨へ。それでも20日の葬儀が終わると、悲しみにくれる間もなく、その日の夜行で大阪へ戻った。

河西「父には金メダルや花嫁姿を見てほしかった。もちろん寂しさはあったけれど、五輪前の大事な時期。代表チームではコーチにもなっていたし、大事な時期に私事で合宿を抜けることは自分で許せなかった。この合宿は人の和をつくりあげるのが目的でしたから」。

翌21日昼、貝塚に戻った河西はすぐにユニホームに着替え、始まったばかりの合宿に参加した。涙を見せない河西に大松は激しくボールを打ち続け、河西も必死に食らいついた。数日間ほとんど眠っていない状態で悲しみを感じさせないように歯を食いしばる教え子に、ボールを通じた激励。厳しさだけがクローズアップされていた「鬼の大松」だが、選手とは強いきずなで結ばれていた。(つづく=敬称略)【近間康隆】

◆河西昌枝(かさい・まさえ) 現姓・中村。1933年(昭8)7月14日、山梨県生まれ。甲西中でバレーを始め、巨摩高から52年に日紡入社。関ケ原、足利工場と移り、貝塚バレー部結成の54年に貝塚移籍。57年から主将を務め、64年東京五輪ではコーチ兼主将のセッターとしてチームを引っ張った。65年5月、大松監督に依頼された佐藤栄作首相(当時)の取り計らいで、自衛官の中村和夫氏と結婚。2男1女を育てる傍ら女子強化委員、04年アテネ五輪の全日本女子チーム団長を務めた。

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