ニチボー貝塚の大フィーバーには、多くの逸話が残る。東京五輪開幕直前、金メダル確実といわれた女子日本代表をマークしていた報道陣は大パニックに陥った。東京・代々木の選手村に選手の姿がない。「魔女が消えた!」となったのだ。産経新聞記者として取材していた八木嬉子(70)が内幕を明かす。

八木「選手は四谷の日本旅館に泊まっていました。みんなで一緒に大広間で食事をして、大風呂に入って、時間のあいているときは語り合ってもらう。大一番を前に、より結束を固めようとした大松監督の狙いがありました。これはマスコミでも一部の人しか知りませんでしたね」。

思惑どおりだった。主将兼コーチだった河西昌枝は「畳の部屋で寝れたし、深夜まで談笑していました。いつもと変わらない生活を送ることができました」と振り返る。選手村にいると、どうしてもプレッシャーがかかる。また、日を追うごとに競技を終えた選手が騒ぐようになっており、同時にマスコミの喧騒(けんそう)からも逃げることができた。ハードな練習ばかりが取り上げられた大松博文監督だが、選手に対してはこういうデリケートな心遣いを忘れなかった。

ソ連との決勝前々日の64年10月21日夜には、球界スターの巨人長嶋茂雄が宿舎を訪ねてきた。「スポーツに関する話を次から次に話してくれた。緊張で硬くなる私たちをほぐそうとしてくれたのだと思う」と河西。翌朝にも果物を差し入れた長嶋は、ソ連戦を観戦した。王貞治も館内にいた。ONが生で見たいというほど「東洋の魔女」への関心は高かった。

普段の練習から注目されていた。大松の指導法を学ぼうと、北海道から九州まで多くの指導者が集まって来た。当時、大阪・四天王寺高監督で、のちに大松の後任としてニチボー、ユニチカ監督を務めた小島孝治が言う。「南海の野村さんが来ていたのを覚えています。ものすごく必死な目で見てましたね」。南海からは当時チームを率いていた鶴岡一人も訪れた。猛練習を見ると「こりゃあ、男には通用せんわ」と口をあんぐりさせたという。阪神や阪急からも選手や関係者の見学が相次いだ。プロ選手がどん欲に何かを吸収しようとするほど、ニチボーの練習は中身の濃いものだった。

五輪後には、魔女フィーバーが最高潮となった。空前のバレーブームが訪れ、テレビドラマ「サインはV」は平均視聴率32%の大ヒット。漫画「アタックNo.1」も大人気だった。大松の口ぐせだった「根性」は流行語に、著書「おれについてこい!」「なせばなる」はベストセラーになった。その猛練習を映画化した「挑戦」はカンヌ映画祭で「短編の部 最優秀グランプリ」を獲得。大松や選手には取材や講演依頼が殺到し、カメラに追われ続ける日々を送った。(つづく=敬称略)【近間康隆】

◆東京五輪のあった1964年(昭39)の出来事 日本は経済協力開発機構(OECD)に正式加盟。10月1日に東海道新幹線が開業し、同10日に東京五輪開幕。同25日、五輪閉幕翌日に池田勇人首相が辞意表明、佐藤栄作首相が誕生する。映画「モスラ対ゴジラ」やテレビ「ひょっこりひょうたん島」が大人気。レコード大賞は青山和子の「愛と死をみつめて」が受賞した。プロ野球はパ優勝の南海がセ優勝の阪神との日本シリーズを4勝3敗で制し2度目の日本一。大相撲では横綱大鵬が年4場所優勝。菊花賞ではシンザンが史上2頭目の3冠馬となった。

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