1941年(昭16)大松博文は中国・漢口へ渡り、独立輜重(しちょう)兵第二連隊へ入隊した。幹部候補生として55中隊へ配属されたが、大松小隊長は23歳、一番若い部下が32歳。大半が40歳すぎの古参兵だった。「あんな若造では」。壁越しに、先輩将校の話し声を聞いた。

「命令しても兵隊は動かなかった。率先して、自分がよりつらい仕事、危険な偵察を率先してやることで、年上の兵隊達(たち)も動くことを知った。軍隊での体験は私を変えた」と、後に記した「おれについてこい」に大松は書いた。

44年(昭19)には「インパール作戦」に参加した。馬を引き、道のない森林をかき分け、山を越えた。英国軍の物資補給は豊かだったが、日本軍はサポートのないまま雨期に入った。インド・アッサム州付近は、「世界の雨の住み家」と呼ばれ、泥水と湿気、食糧難とマラリアの挟み撃ちに苦しめられた。英国空挺(くうてい)部隊が後方に降りて、日本軍を分断。取り残された大松の部隊は、密林の中を3カ月半もさまよい歩いた。食糧は尽きて、マッチもなくなった。火が起こせないから、死んだ馬は皮をはいで、生肉をかじって飢えをしのいだ。毎日、10人、20人と死んだ。

【証言】当時軍医だった小林昭一中尉(82) 「大松少尉は若いのに、部隊のまとめ方がうまかった。物資を現地調達し、敵襲を避けながら移動する手際のよさに舌を巻いたものだ。20年(1945年)1月に別れたが、彼ならうまく帰国するだろう、と思ってはいた」。

600人の独立中隊で、生き残ったのはわずか150人にすぎなかった。

モールメンにたどりついたところで終戦。約2年の捕虜生活を送った末に帰国した。東京五輪後のインタビューで「われわれを武装解除した英国人兵の程度が悪く、何かするとすぐ戦犯だと。勝てば官軍だ、何事も、やるからには勝たなければならない。それを思い知った」「振り返って、楽だったときの思い出は何もないが、苦しかったときのことほど、楽しく思い出す。苦しむことの大切さも、ああした体験で逆に学んだ。逆境でこそ、人間は生きがいを得るのだと」と答えた。

【証言】小学校の同級生、山本氏 「48年(昭23)の実業団バレー大会で再会した大松(当時日紡尼崎監督)の顔を見て、その精かんさ、厳しさに目を見張りました。もう幼少のころの甘さはどこにもなく、別人のようでした」。

日紡(現ニチボー)には既に41年(昭16)に入社していた。復員後の53年(昭28)11月、日紡貝塚にバレーボール部が誕生した。大松は社長命令で監督に就任した。

日紡足利から来た河西を、当時の9人制の前衛センターとして、まず徹底的に強化した。174センチと長身だったが動きが鈍く「大柄のセンターは成功しない」といわれた。大松は、雑音に耳を貸さなかった。狭い日本の「ギョーカイNO・1」をもくろむ者には、「世界最強」を目指す大松の発想は理解できなかった。

【証言】河西昌枝さん(現姓中村=62) 「大松先生といえば、厳しさばかり指摘されるけれど、13年の選手生活を振り返ると“バレーの面白さ、楽しさ、を教えてもらった"印象の方がはるかに強い。先生との“絶対の信頼"こそが財産でした」。【特別取材班】(つづく)

◆インパール作戦 1944年(昭19)3月、日本陸軍はインド東北部・アッサム州の首都インパールを攻撃目標に3個師団とインド国民軍がビルマから進攻。食糧、弾薬に乏しい日本軍は、ジンギスカンの故事にならって羊の大群を伴って移動、インパールに拠点を置く英国軍の物資や弾薬を奪う作戦だった。しかし、これを知った英国軍は空からの補給で防衛陣を強化し、逆に日本軍の後方に空挺部隊を降下させて挟み撃ち。補給路を断たれた日本軍は、10万人のうち、6万5000人が餓死と病気に倒れ、「史上最悪の作戦」といわれた。

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