【証言】19歳でレギュラーに抜てきされた磯辺サタさん(51=現姓丸山)「私は先生から幸運を三つ頂きました。神崎中(千葉)から、モノになるか分からないのに日紡へ引っ張ってもらい、1年後には四天王寺高へ進学させてもらい、再入社直後に五輪選手にしてもらったんです」。

幼い時に両親を亡くした磯辺は、節目、節目で大松に支えられた。「先生は無口で、一緒に夜汽車に乗った時は、人さらいに遭ったような心細さでしたが、いきなり会社へ連れて行かず、先生の家で美文ちゃんと緑ちゃんの姉妹に歓迎してもらいました。それで気分がすっかりほぐれて、ずっと父代わりに思うようになりました」。

宮本選手の妹も、大松の気配りを話す。

【証言】 水島典子さん(53)「姉たちの慰問に和歌山からおすしをもって行ったら、監督さんの横に座らせてくださって、帰りには“おいしかったよ"と、お小遣いまで頂きました」。

「鬼と仏」の間を、大松は往来し続けた。どちらが本当の大松なのか、選手は知っていた。岸和田市にある寺田病院の当時の院長、白旗信夫氏(87)も見抜いていた。

【証言】白旗氏 「がむしゃら練習ではなく、常に心と科学の調和を考える人だった。だからこそ、10年以上も続けられたのだろう。選手全員の綿密なカルテを作っていた」。

野球好きの大松は、山内一弘(大毎―阪神)の打撃に興味を持ち、1963年(昭38)には甲子園に訪ねている。

【証言】山内氏(62=現阪神打撃コーチ)「ベースは幅わずか43センチなのに、野球ではヤマを張る。バレーボールのスパイクは2メートル以上も広がるが、私は絶対ヤマは張らせない、と自信たっぷりだった。その日の試合(大洋戦)で、言う通りに、ヤマかけなしで打ったら1安打。こりゃもっと練習せにゃ、と教えられた」。

東京五輪が迫るとケガ人が続出した。さしもの大松も、「迷うな、すべては鍛錬が決める、と自分を納得させるのには時間がかかった」と後で述べている。

【証言】当時のマネジャー鈴木恵美子さん(52=現姓大野)「お酒を飲まない方でしたから、逃げ場がなくて大変だったと思います。私の入れたコーヒーを、おいしそうに飲まれていました」。

大松は、乗り越えた。魔女たちは、それについていった。ソ連に1セットも与えずに、金メダルを奪った。五輪後、磯辺を除く魔女たちは大松とともに引退した。大松らしく、企業や社会が選手を使い捨てる風潮にも抗議した。参院議員を6年務めた後は、ママさんバレーの指導に情熱を注いだ。78年(昭53)11月23日、岡山県井原市で指導した夜、胸が痛いと訴えた。

【証言】 大松美智代さん 「めったに電話をしない人が、前夜、突然連絡してきてびっくりした矢先でした。それにしても早すぎました。あと十年は一緒にいたかったのに……」。

【証言】元井原市家庭婦人バレー協会理事長・妹尾正一郎氏(71)「あの日、大松さんは風邪気味で体調もよくなかった。無理されたのが今も気に掛かっています」。

「どうして、こんなに苦しまなくてはならないんだ!」。絞るような言葉を残し、24日午前1時20分、やみに入った。享年57。井原市大仙院の境内に、自筆の「為(な)せば成る」の碑が残されている。【特別取材班】(おわり)

★取材後記 「嵌(はま)る」という言葉がある。落ち込むとか、だまされるの意味とは別に、「しっくり、ぴったり合う」ときにも使われる。大松監督と選手たちとのかかわり合いをたどっていくと、彼の熱い思いが次第に魔女たちの心の中に染み込んでいくのが分かる。逆に、選手たちも、いつの間にか監督の胸中に入り込み、両者が一体となり「1プラス1」以上の効果を発揮している。強さと、温かさがミックスされたものが大松独特の魅力なのだろう。そうでなくては、10年にわたる殺人的な猛練習に耐えられるものではない。カリスマ的な指導者・大松を支えていたのは、実はごく人間くさい要素だった、と思う。残念なのは勝負の行く末を的確に読んだ大松が「自らの命」だけは予測できなかったことだった。【大阪本社編集委員・山本敏男】

【この道~500人の証言~大松博文/連載まとめ】はこちら>>