22年北京冬季五輪の最終選考会となるフィギュアスケートの全日本選手権は23日、さいたまスーパーアリーナで開幕する。

女子の代表枠は前回18年平昌五輪から1枠増えた「3」。日刊スポーツでは「さいたま最終決戦~北京への道~」と題し、19日から3日間、23歳の前回代表、初出場を狙う20歳の大学生、17歳の高校生と3世代の歩みを描く。

第1回は4年前に全日本4連覇を飾り、五輪4位入賞を果たした宮原知子(23=木下グループ)の思いに迫った。

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時代の移り変わりに向けた「足音」を、宮原は今から10年前に感じていた。

大阪・関大中2年だった2011年。場所はバルト海南部に面する、ポーランドのグダニスクだった。初めての大きな国際大会となるジュニアグランプリ(GP)シリーズ第3戦。そこに7月1日が区切りのスケート年齢で、同い年にあたる当時13歳の少女がいた。

「あの時が本当に衝撃的でした。ジャンプで絶対にこけない。いつ見ても完璧に演技をする。『ロシアの新時代』というか『これからそういう選手が増えるのかな』と思いました」

ユリア・リプニツカヤ。のちに14年ソチ五輪団体戦金メダルに貢献し、高い柔軟性を駆使した「キャンドルスピン」で有名になった。初めての競演はリプニツカヤが172・51点で優勝、宮原が162・20点で2位。2戦目はミラノで行われた第6戦イタリア大会だった。現地入りすると「また、この子いるやん」と驚いた。リプニツカヤが183・05点で優勝、宮原は143・24点で5位。得点差以上に存在が衝撃だった。

「ジャンプもスピンも全部うまい。最近はみんな年下っていうのもあって、ロシアの選手があいさつをしてくれます。リプニツカヤ選手はその時から『強い』っていう感じで、向こうから手を振ってくれた時にむちゃくちゃうれしかった」

当時を思い返し、そう笑うほどだった。そこでひそかに抱いた思いがあった。

「自分の道をひたすらいく。それがいつか実って、結果につながって『ロシアの選手の誰かに勝てたらいいな』と思いました」

ジュニア1年目の出来事は、自らのスタイルを築き上げる1つのパーツになった。

4年前の2017年。この年は天と地を味わった。

前年の全日本選手権3連覇直前から股関節に痛みがあり、疲労骨折が判明した。周囲からは日本の「エース」として期待される中、2月の4大陸選手権、アジア大会、3月の世界選手権を欠場。勝負の五輪シーズンとなっても、初戦は11月のGPシリーズNHK杯まで遅れることになった。

助けになったのは地道な努力で培ったスケーティング、スピン、ステップといった土台だった。豊富な練習量で養った基礎にジャンプを加え、競技会復帰から約1カ月半で全日本選手権4連覇。平昌五輪では4位入賞を飾った。ジャンプだけでない総合力の高い演技は、1つの作品として世界のファンの胸に刻まれた。

あれから4年。世界は高難度ジャンプの時代に突入した。あのリプニツカヤの後輩にあたる17歳アレクサンドラ・トルソワが4回転ジャンプを跳び、今季はシニア1年目の15歳カミラ・ワリエワが注目を集める。

宮原の立ち位置も変わった。

「『4年前の自分とは、全く人が違うな』って思っています。あの頃はフレッシュさが勝っていた。ポジティブではない言い方をすれば、前はもっと何も考えずにできたと思いますし、裏返すと、それだけ経験したことがあって、今の自分がいるのかなと思います」

選んだのは変化だった。

21歳となった2019年からカナダに渡り、新たにリー・バーケル・コーチの指導を受け始めた。

「平昌五輪が終わった次のシーズンから『何か変化をつけなければ、自分のスケートが変わることがない』と考え始めました。競技人生を充実させるために、いろいろなことができるんじゃないかと思いました」

全日本選手権では6年ぶりに表彰台を逃して4位。すぐに結果は出なかった。

日本との大きな違いは練習環境だった。カナダは氷上練習の1コマが45分~1時間。日本より30分ほど短かった。従来は与えられたメニューをこなし、終わってからも地道にスピンなどの練習を納得がいくまで行ってきた。カナダでは「今日はどんな練習をするの?」と尋ねられ、メニューも自ら組み立てる。バーケル・コーチは量以上に質を重視する方針で、1日3コマの練習量にとどまった。慣れるのには時間を要した。

「日本の感覚であれば『やっと体が動き始めた』と思う時に、練習が終わってしまう。特に調子が悪い時期は『練習、これだけでいいのかな?』と思ってしまい、自分に自信が持てませんでした。ジャンプは跳べていても、どこかで抱えている不安が底無しに膨らんでしまう。慣れるのに、1年半程度はかかりました」

トリプルアクセル(3回転半)、4回転…。10年前のあの日から意識する、ロシア勢との差は広がった。一方、宮原は生みの苦しみを経て、フィギュアスケートに欠かせない大切な引き出しを作ることができた。

「オンとオフの切り替えが、以前に比べたら、すごくできるようになりました。そこから得たのが自主性です。以前はプログラムを良くするために『音楽やバレエ、映画を見ないといけない』と宿題のようにやっていました。今は芸術や他の文化に触れることが『やっぱり必要だな』と、心の底から思えるようになりました」

演目と全く関係のないダンスに触れ、オーケストラを聴き始めた。「憧れ」と目を輝かせるカロリナ・コストナー(34)、ステファン・ランビエル(36)がそうであったように、23歳の今、宮原には競技人生の新たな目標が生まれている。

「年々、スケートの良さ、奥深さを感じます。今は経験が増えて『誰にもできない、自分にしかできないスケートを見せたい』と思うようになりました。カロリナやステファンを見ていると『いかに楽しんで滑るか』に重きを置いています。『ああいう風に心から滑れたら、本当に楽しいんだろうな』と憧れます。結果を出すためには、技術ももちろん大事。技術と表現が合わさり、自分らしいスケートをしたいと思います」

これまでの歩みを、滑りに込める。【松本航】

◆宮原知子(みやはら・さとこ)1998年(平10)3月26日、京都府生まれ。4~7歳は米ヒューストンで暮らし、5歳で競技を始める。ジュニア時代の12年全日本選手権で3位に入り、シニア1年目の13年NHK杯でGPシリーズデビュー。初出場の15年世界選手権で2位となり、GPファイナルは15、16年と2年連続2位。全日本選手権は14年から4連覇するなど、過去7度の表彰台を経験。今季はGP第1戦スケートアメリカ7位、第3戦イタリア大会5位。152センチ。