体操男子で五輪個人総合2連覇の内村航平(33=ジョイカル)が11日、現役引退を発表した。近年は両肩痛に苦しみ、20年2月からは種目別の鉄棒に専念。4度目の五輪を迎えた東京五輪では落下が響き、予選落ちしていた。昨年10月に出生地の福岡県北九州市で開催された世界選手権では6位だった。五輪では団体、種目別を含めて7個のメダルを獲得、世界選手権でも世界最多の6連覇。前人未到の40連勝も記録した「キング」が決断を下した。14日には引退会見を開く。

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母国、東京で五輪が開催された21年を終え、新たな年を迎えるとともに1つの節目を迎えた。内村が競技者としての体操人生に終わりを告げる。

昨秋の世界選手権を終えた直後に進退は熟考する姿勢をみせていた。「とりあえずゆっくり休んでいろんなこと考えたい」「続けるにしても辞めるにしても、相当考えて決めないといけない」と述べていた。

その後のイベントでは「辞めたいとは1ミリも思ってない。ただ、(日本)代表でやってきて、代表である自分が内村航平であるというプライドがある。そこを取っ払ったら、やれる。最後に決めるのは自分だな。考えに考えて考え抜いて決めようと思いました」と心境を語っていた。今月上旬から行われた代表合宿には姿はなかった。日の丸をつけて世界と戦うことが難しい現実も、決断を促したのかも知れない。

16年リオデジャネイロ五輪で個人総合2連覇を飾ってからは苦難続きだった。競技人生の“致命傷”となったのが、蓄積疲労が限界を超えた両肩痛だった。治療のために患部への注射を100本以上打ってきたが、「完治はない」と覚悟していた。常に痛みの再発の不安も抱えながら東京五輪に出るために、「6種目やってこそ体操」の信念に逆らい、鉄棒に注力して集大成の東京五輪を目指した。

結果はひねり技で落下して予選落ち。「『何やってんだバカ!』。それ以上も以下でもない。全部自分のせい。自分に失望している」と嘆いた。昨年10月の世界選手権では、「会心の一撃」という、代名詞のピタリと止める着地を披露した。結果は6位も、「体操の素晴らしさを伝えるのはできたかな」と納得していた。

指導者の両親のもと、3歳で競技を始めて30年あまり。体操とはと聞かれ、いまもこう答える。

「相変わらず、僕にとっては最高以外ないです。自分が自分であることを唯一証明できるものですね」。

体操=内村航平。日本、世界でもその認識は同じ。そして、競技者としての生活を終えても、それは一生変わらないだろう。【阿部健吾】

▽巨人原監督 世代をつくった1人だね。本当に楽しませてもらったし、あれだけ小さな体で大きく見せた選手は、世界でも彼が一番ではないか。体操ファンのみならず、大いに楽しませてもらった。彼に勝る選手を、たぶん育成していくでしょう。

【こんな人】「信じない」内村航平「めちゃくちゃ頑固」だからこそ強かった

<内村航平のアラカルト>

◆出身 1989年(昭64)1月3日、福岡県生まれ。3歳から両親が運営する長崎・諫早市の「スポーツクラブ内村」で体操を始める。「家に帰ったら体操の器具で遊ぶというのが日常。練習が休みの日も家が体育館だから遊ぶ。その延長でここまでこられた」。

◆記録 五輪、世界選手権のメダル数は28個。ロンドン五輪では個人総合で日本勢28年ぶりの金、16年リオ五輪では44年ぶり2人目の2連覇で、世界でも4人目。世界選手権でのメダル数21個は、史上最多23個のバルセロナ五輪6冠のシェルボに迫った。

◆連勝 6種目で争う個人総合では08年全日本選手権から17年NHK杯まで40連勝。落下で大幅な減点がある体操では驚異の安定感を誇った。

◆プロ 16年12月に日本体操界で初のプロ選手に。コナミスポーツを離れ、普及と競技の価値向上を求めた。年間の収入は2億円(推定)を超えた事もあり、後輩への希望にもなった。

◆技 20年秋にツイッターで、習得した技数を、全832中496と公表。半数以上は、他選手に比べて断トツ。新技は新しく成功した選手の名前が付くが「ウチムラ」はない。求める完成度が高く、既存の高難度技に取り組み、あえて目指さなかった。「『あいつあれだけ勝ったのにないらしいよ』と言われるのも、逆にありかな」。

◆好き 昆虫好き。「地元が長崎で自然が豊かな所で育っているので、セミやらコオロギやらなんでもいた。つかまえるのが楽しく、どこが耳、目なんだろうと。もともと探求心もすごかった。体操に対する探求心もそれにつながっていると思う」。人物では坂本龍馬。「誕生日が一緒で、親近感がある。日本を変えた人というイメージ。僕も日本の体操界を変えたいという思いがあるので」。