ラグビーのリーグワンで埼玉(旧パナソニック)が初代王者となった。節目に、埼玉の歩みを振り返る。

 ◇   ◇   ◇

天然芝の練習場を見渡すクラブハウス。対面にはテラスやレストランから練習風景を見られるホテル、隣に熊谷ラグビー場がある。開幕前、埼玉は群馬・太田市から総工費約35億円の「さくらオーバルフォート」(埼玉・熊谷市)へ拠点を移した。練習中、市民がジョギングや犬の散歩ついでに立ち止まる。大東大出身の飯島均ゼネラルマネジャー(GM、57)は「選手も見られることで成長する。小さい子どもには芝に入ってもらって…とか、できたらいいな」と笑った。

わずか10年ほど前、先は見えなかった。11年1月、前身のトップリーグで初優勝。飯島GMは三洋電機を監督として率いていた。優勝報告の場で当時の佐野精一郎社長に「監督を辞めます。4月から大阪へ転勤します」と切り出した。上司にさえ伝えておらず、トップにその場で直談判した。

同年4月に同社はパナソニックに完全子会社化されることが決まっていた。チーム名は「パナソニック」へ、ジャージーも赤から青へと変わった。「パナソニックが大事にしてきた競技はたくさんある。(本社の)大阪から見たら群馬のラグビーは一番外の金食い虫。(業績悪化時に)最初につぶれるのはラグビー」。大阪市旭区の太子橋に1Kの部屋を借り、使命感でパナソニックへと出向した。

仲間は少しずつ増えた。「俺がつないでやる」-。社内外の理解者がパナソニック上層部と接点を作ってくれた。フッカー堀江翔太、SH田中史朗(現東葛)らがパナソニックの理解を得ながら海外へ飛び出し、彼らが名を連ねた日本代表も歴史的勝利を挙げた15年W杯の南アフリカ戦などでラグビーの価値を高めた。

行政やラグビー協会を巻き込み、熊谷に誕生した一大拠点。今季に向けて飯島GMは「(個々の事情がある選手を除いて)全員を残した」と選手契約でもこだわった。美しい天然芝の練習場を眺めながら言った。

「あの時(11年)、誰がこの光景を想像しましたか? 廃部も覚悟した。それでも『できるんだ』と実感する。実体験にすることは、個人にもチームにとっても有益です。ワイルドナイツの人間に、この価値を経験してもらいたかった」

三洋電機初優勝時、25歳だった堀江は力を込めた。

「赤を着てきた人間にすると、最初は『青?』と違和感しかなかった。今となったらもう、青の方がしっくりくる。僕たちがどういうプレーをするか、結果を残すかで、価値は上がる」

強化、運営の両面で成長を志す新リーグ。埼玉はその先頭を歩く。【松本航】