甲子園の歴史は、「アイドル」と呼ばれた、さわやか球児たちの存在で輝きを増した。全国高校野球選手権大会100周年企画「未来へ」の第5回は、「アイドル編」。元巨人投手の定岡正二氏(58)は、鹿児島実のエースとして出場した74年夏の準々決勝で原辰徳氏(巨人監督)擁する東海大相模(神奈川)を倒して人気が爆発。甘いルックスで、大フィーバーを巻き起こした。歴代のアイドルたちをひもときます。【前編】

完封で甲子園初勝利を飾った鹿児島実業・定岡正二は笑顔でポーズ(1974年8月)
完封で甲子園初勝利を飾った鹿児島実業・定岡正二は笑顔でポーズ(1974年8月)

 17歳の夏を境に、人生が一変した。74年夏。定岡氏が、連続完封で準々決勝に進出すると、相手は優勝候補の東海大相模だった。4番は1年生の原氏。当時は決め球の速球対策に、バットを短く持ってくるチームが多かったが、原氏はバットを一番長く握っていた。

 「構えにびっくりしましたね。何だこの1年生って。でもそれだから、アウトローの僕の決め球に届く。印象深いですね」

 原氏には、先制適時打を含む6打数3安打と打たれた。それでも雨中の激戦で、延長15回213球を投げ抜き、18奪三振で完投。3時間38分の激戦を制した。

 この日から「定岡フィーバー」が始まった。翌日の準決勝、防府商(山口)戦は、3回にタッチアップからホームに突入した際に、スライディングで右手首を痛めた。直後に降板し、チームはサヨナラ負け。実力、ルックスに加え、“非運のヒーロー”として、国民的注目を浴びた。

 新大阪から地元鹿児島に帰る電車で、人生の変化を実感する。「出発の時はほとんど身内で5、6人だったのに、西鹿児島駅に着いたら、何千人も駅にいるんだもん」。

 練習場には常に女性ファンが大挙して押し寄せた。ファンレターは、住所はなくても、「鹿児島県 定岡正二様」で届いた。

 「ラブレターなんか、もらったことがないし、野球ばっかりでデートもしたことない。休みもない。そんな中で、色の付いた、匂いの付いたレターもらってごらんなさいよ。たまに写真入っているから、それがうれしくて。ハートとか、香水が付いたやつとかね。匂いだけでもうれしくて」

 最初はすべて返事を書いたが、追い付かなくなった。1日何百通と届き、4畳半の自室がファンレターでいっぱいになった。自宅の電話は24時間鳴りっ放し。次第に自宅前に観光バスが止まるようになった。

 「ここが定岡選手の家ですって。えらい迷惑だよ(笑い)」

 同年に巨人から1位指名を受けた。長嶋茂雄監督(現巨人終身名誉監督)の就任1年目と重なり、多摩川グラウンドに約2万人の人が集まった。プロでもフィーバーは続いたが、すべての始まりは甲子園だった。

 「人生で一番のことでしょう。練習が嫌で、いつも高校生の時はやめてやるって思った。みんな女の子とデートしたり、遊んだりしている中で、どろどろになりながら、水も飲めなくて。でもそういうことやってきたから甲子園に出られたし、勝てた。今思うと、ほしくて人気が出るわけじゃないじゃない。素晴らしい財産だと思います」

 プロ入り後は、趣味に「ハンカチ集め」と書いたら、大量のハンカチが送られてきたことがある。「だから(早実)斎藤君が出てきた時に、ハンカチ王子はオレの方が元祖でしょ、って言いました」と笑う。

 引退後はタレントとしても活躍する。すべては、「あの夏」が始まり。甲子園は、今も昔も人生を変える力がある。【前田祐輔】

定岡の甲子園登板成績
定岡の甲子園登板成績

 ◆定岡正二 さだおか・しょうじ。1956年(昭31)11月29日、鹿児島生まれ。鹿児島実から、74年ドラフト1位で巨人に入団。プロ通算51勝42敗3セーブ。兄智秋は元南海内野手、弟の徹久は元日本ハム外野手と、3兄弟が全員プロ入りした。

(後編へつづく)