「打者糸井」は2006年4月24日に誕生した。投手として日本ハムに自由枠で入団して3年目。キャンプを終えてシーズンも開幕した4月の育成会議で、打者転向が正式に決定した。「先生役」は大村巌2軍打撃コーチ(47=現ロッテコーチ)だった。主戦場をセ・リーグに移した強打者糸井の「生みの親」が、日刊スポーツに誕生秘話を語った。

 4月24日に行われた日本ハムの育成会議で、高田繁GM(71=現DeNAGM)は首脳陣を前に糸井の打者転向を確認した。キャンプを投手として過ごしたが、課題の制球難が改善されそうな気配もない。まさに崖っぷち。糸井の「専属コーチ」に指名されたのは、指導者となって1年目の大村打撃コーチだった。プロで同じく投手から野手に転向した経験を買われた。

 「当時、(2軍に)もう1人打撃コーチがいたけど、1つの方針にした方がいい。大村、お前1人でやれと。2年くらいかかると思いますと言ったら、何を言ってんだ。1カ月だってね」

 その時点で1カ月後の2軍戦で野手としてデビューすることが決まっていた。わずか30日間。特訓が始まった。

 大村コーチは糸井のために50項目に及ぶカリキュラムを組んだ。今日はアウトコース。今日は高め。今日は真っすぐ。今日は左投手、今日はバント…。1日に1項目か2項目をクリア。言葉ではなく、その場でやってみせる。するとすぐに吸収。目で見てコピーする能力に驚かされた。非凡な才能を目の当たりにしたが、頭を悩ませたこともあった。

 「あの時、あいつに言われたんです。アカン、アカンって言ったらホンマにアカンようになってまうでしょ! 真剣にどう教えていいのか悩んでね」

 書店である本に目がいった。「ペットの飼い方」。ページを開くとそこにはこう書いてあった。「おしっこを廊下でしても怒っちゃダメ」「トイレに行って出来たら褒めてあげる」。それを見てふと思った。

 「変化球を打てたら褒めてやろうってね。あいつを子犬と一緒にしたら悪いけどね(笑い)」

 技術論だけではない。マンツーマンのレッスンでは私生活やプロ野球選手としての心得、将来のことにまで話が及んだ。マスコミやファンとの付き合い方。試合の日の過ごし方。ネクストの入り方。ティー打撃をする目的。打率の計算方法。夏場には少し軽めのバットを使うことも教えた。

 「お前はこれからいろんな人と出会う。いずれ俺と別れる。その時のためのことをこれからやるってね。まさにリトル・リーグ。ゼロの状態だから分かんない。知らないんだからしょうがない。社会、道徳、数学…てね。毎日やった」

 あの時の経験が指導者としての礎になっていると大村コーチは断言する。あれから11年。「打者糸井」の生みの親は新天地で開幕を迎えた教え子に愛情たっぷりのエールを送った。

 「今でも気持ちは若手だと思うよ。たぶん、35歳っていう自分の年齢は感じてないんじゃないかな。これからも長く頑張ってほしい。あの時、言ったことと変わらない。自分のために稼げ。チームが勝つためにやれ。引退したら足の速いただのおじさんになる。それまで一生懸命やれってね」

 まっさらだった「打者糸井」はわずか数年で球界を代表する打者に成長を遂げた。その裏には類いまれな才能と努力。そして恩師の熱い情熱があった。【取材・構成=桝井聡】

 ◆大村巌(おおむら・いわお)1969年(昭44)5月31日、北海道稚内市生まれ。東海大四2年の夏にエースとして甲子園に出場。87年ドラフト6位でロッテ入団後、外野手に転向。92年9月30日のオリックス戦で1軍デビューし、96年から1軍レギュラーに定着。03年に現役引退。通算成績は441試合に出場し、1158打数310安打174打点36本塁打、打率2割6分8厘。06年から日本ハム、DeNA、ロッテのコーチを歴任する。186センチ、88キロ。右投げ右打ち。