<木庭教さん・スカウト物語>(1997年7月に日刊スポーツ紙上で連載されたものです)<その1>

 金の卵を探すプロ野球スカウトにとって今年もまた熱い季節がやってきた。日本ハム木庭教(きにわ・さとし)スカウト(70)は41回目の夏を迎えた。これまで数々の名選手を発掘してきたベテランスカウトの奮戦ぶりを「ザ・スカウト」と題して連載します。

 「もう、夏じゃね」。目まいがしそうなほど強烈な日差しを見上げながら木庭はポツリとつぶやいた。木庭にとって一年の中で一番好きな季節がやってきた。春先に目をつけておいた高校生がどれくらい成長しているか。28日で71歳になるが、ワクワクする気持ちは若いころと少しも変わらない。

 担当地区を持たない遊軍スカウトの木庭に今年、ある指令が下った。その指令とは「サウスポーを獲得せよ」。日本ハムは左投手が不足している。ピッチャーは一、二軍合わせて29人いるが左腕は5人だけ。他の11球団を見渡しても5人というのは最も少ない。最多はダイエーと中日の11人。

 パ・リーグの打撃成績を見ると上位5人中、4人が左打者。「良い左ピッチャーが少なくなったからじゃね。左バッター全盛時代というのか、イチローもそのうち4割打ちよるよ」と木庭は説明した。

 今年、木庭が目をつけているサウスポーは4人。水戸商(茨城)の井川慶、平安(京都)の川口知哉、鳥取城北(鳥取)の能見(のうみ)篤史、南陽工(山口)の黒磯真司。春の時点で、4人ともチェックしている。

 「4人の中では井川君が一番エエよ。ありゃエースになれる器をしとる。ただ、腰が悪いと聞いているんで、それがどの程度なのか……」。

 広島時代、大野、川口(現巨人)高木(西武移籍後引退)と左腕投手を発掘してきた。「細身のピッチャーが好きじゃね。それと手元でどれだけ伸びているか。スピードガンの数字をうのみにしちゃあいかんよ」。もっとも、このスピードガンを日本のスカウトで最初に導入したのは木庭だった。

 (敬称略)<その2>

 1977年(昭52)、大阪出張中の木庭(当時広島スカウト)にお土産が届いた。スピードガンだった。米国の教育リーグから帰国したスタッフが現地で買ってきたものだ。木庭は誕生日のプレゼントをもらった子供のように箱からスピードガンを取り出すと、さっそく実験してみた。

 道路を走る車のスピードを測ってみた。しかし、数字が表示されない。あとで分かったのだが、時速60キロ以下のものは測定不能だったのだ。そこで、その夜、大阪球場で行われたナイター、南海―ロッテ戦に出掛けた。ロッテの先発は村田兆治(現ダイエー投手コーチ)だった。興味津々でスピードガンを村田の速球に当ててみた。93マイル(約150キロ)出た。

 数日後、スピードガンを持って東京出張に出掛けた。当時、法大で投げていた江川卓(元巨人)の速球を測るためだった。「ここという場面では、やっぱり速かった。93、94マイルは出ていたかな」と木庭は回想する。

 木庭が日本で初めてスカウト活動に取り入れたスピードガンはその後、放送局がプロ野球中継用に導入。80年以降、全球団のスカウトが一人1台、携帯するようになった。「報告書には必ずスピードを記入するんじゃが、これがくせものでねえ。実際、そのピッチャーを見とらん者が数字だけで判断したがるから」と木庭は苦笑いした。

 木庭のバッグにはスピードガンのほか、ストップウオッチ、双眼鏡、木庭が発明した手帳サイズのスコアブックが入っている。ただ、これだけは持つまいと決めているものがある。ビデオカメラである。

 (敬称略)<その3>

 真っ黒に日焼けしたいかつい男たちがネット裏にズラリと顔を並べていた。5日の春日部共栄(埼玉)のグラウンド。スカウトのお目当ては柏陵(千葉)の大型右腕、鳥谷部(とりやべ)健一(3年)だった。

 スピードガンで球速を測り、ほとんどのスカウトがビデオに鳥谷部の投球フォームを収めた。ハンディ式のビデオカメラはスピードガンとともに今ではスカウトの七つ道具の一つとなっている。

 だが、木庭はビデオカメラを持たない数少ないスカウトの一人だ。「ビデオは好かんね。あれを持たされてるってことは、自分の目が信用されてないってことなんじゃよ」。木庭がスカウトになった1957年(昭32)当時、ビデオを持ったスカウトは、いなかった。ひたすら自分の眼力を信じ、球団もスカウトの目を信用してくれた。

 ところが、最近はスカウトが撮影してきた有力選手のテープを編集、一本のビデオにまとめて球団首脳、そして現場の監督やコーチにまで見せるようになった。「高い契約金を払って選手をとるんやから、ビデオでチェックしたいという気持ちは分からんでもない。だがそれでは欠点は少ないかわりに平均点の選手ばかりが集まってしまうんじゃよ」。

 「ヒラメキというんかなあ」。木庭はその選手を初めて見た時のフィーリングを大切にする。ビデオやスピードガンの数字には表れないもの。41回目を迎えたこの夏も、自分の目と、ヒラメキを頼りに木庭は全国を回る。

 (敬称略)<その4>

 「サウスポーを獲得せよ」。この夏、木庭に下された指令である。木庭にとって左腕投手は何かと思い出が多い。1980年(昭55)に中央ではほとんど無名に近かった川口和久(現巨人)を1位指名した。183センチ、75キロのスリムな体。「ズドン」というより打者の手元で「ピュッ」と伸びるキレのいいボールを投げる川口を木庭は高く評価していた。その後の活躍は言うまでもない。

 そして木庭にとって忘れられないのが大野豊(広島)の獲得だった。出雲商(島根)時代から目をつけていた。指名しようとしたが、家庭の事情から大野は地元の出雲信用組合入り。硬球を捨て、軟式野球を始めたことで他球団のスカウトは大野のマークをやめた。

 しかし大野が高校を卒業して3年後の76年、プロ入りしたがっているという情報を木庭はつかんだ。同じ島根の平田の青雲光夫(現阪神打撃投手)が阪神からドラフト外で誘われたことで「アイツがプロ入りできるんならオレだって」と大野の負けん気がムクムクと頭をもたげたのだ。

 木庭は大野を広島の練習場に連れていきテストした。大野にとって3年ぶりに握る硬球だったが、ブランクを感じさせないキレのいいボールを投げ込み合格。ドラフト外で獲得を決めた。地道な追跡調査を続けた木庭の粘り勝ちだった。

 「有名選手を高い金を積んでとるのもプロ。でも良い選手をいかに安くとってくるか、こっちの方が本当のプロやと思うがね」。大野二世はいるのだろうか。隠れた逸材を求めて、木庭の旅がまもなく始まる。

 (敬称略)<その5>

 「番手(ばんて)の選手が好きなんじゃよ」が木庭の口癖である。「番手」とは競輪などで使う用語で2番手の意味である。先行する選手の後ろにつけ、最後は差し切り勝ちする。

 1983年(昭58)、木庭は中京(愛知)の紀藤真琴(広島)を3位指名した。中京で紀藤はエース野中徹博(現ヤクルト)の控え投手。つまり2番手だった。が、野球センスの良さ、ボールの速さとキレ、そして負けん気の強さを木庭は高く評価していた。プロ入り後、二人の立場は逆転している。

 もっとも、そんな「番手」を探す楽しみも年々、味わいにくくなってきている。「速いボールを放る子が減ってきている」というのだ。「140キロ以上出たとか新聞に書いてあるが、それは初速。終速で140キロ以上出る子が最近はほとんどおらん」。ボールが手を離れた瞬間(初速)より、打者の手元でどれだけスピードがあるか。プロのスカウトは終速を重視する。

 木庭によれば終速が140キロを超えていたのは88年、津久見(大分)の川崎憲次郎(現ヤクルト)が最後。平成に入ってからは終速が140キロを超える高校生投手はいないということになる。

 「昔に比べて体格は良くなった。でも、鍛え方が足りん」と木庭は嘆く。肩やヒジの故障を恐れるあまり投げ込みが不足しているというのだ。「中学から高校1年くらいまでが一番、肩が強くなる時期なんじゃよ。この時期にしっかりした指導者にみっちりと鍛えてもらう必要がある」と木庭は力説する。

 41回目の夏、木庭のハートを激しく揺さぶる球児は出てくるのだろうか。新たな出会いを求めて今日10日、茨城大会へ足を運ぶ。

 (敬称略=おわり)

 ◆木庭教(きにわ・さとし)

 1926年(大15)7月28日、広島県生まれ。広島商卒業後、証券会社に入社。その後57年(昭32)1月、広島にスカウトとして採用された。らつ腕スカウトとして鳴らし広島時代は衣笠、高橋慶、大野、川口(巨人)、紀藤らを発掘した。87年に大洋(現横浜)、91年(平3)にオリックスに移籍し一昨年オフ日本ハム入り。現在の肩書は編成部顧問。※この記事は1997年7月、日刊スポーツ紙上に連載されたものです。