「炎のストッパー」が殿堂入りした。球界の功労者をたたえる野球殿堂入りが13日、野球体育博物館で発表され、競技者表彰のプレーヤー部門で、脳腫瘍のため93年に32歳の若さで他界した故津田恒実氏が選ばれた。広島の抑え投手として活躍した津田氏は、闘志あふれる投球でファンを魅了した。津田氏のチームメートで、通算213勝を挙げた北別府学氏(54)も同時に選出された。津田氏の19度目の命日にあたる7月20日の球宴第1戦(京セラドーム大阪)の試合前、表彰式が行われる。

 反応を想像してみると、天国で控えめに喜ぶ夫の顔が浮かんだ。津田氏の晃代夫人(48)は「一番驚いているのは津田本人だと思う。主人はきっと『自分なんかが』と恐縮していると思います」と、本人の思いを代弁した。予想していなかった殿堂入り。熊本に住む夫人は、山口県にある墓前への報告をする暇もなく、上京してきたという。「北別府さんと一緒に選ばれ、本人は感慨深く受け止めていると思います」と、深々と頭を下げた。

 確かに選手として輝いた時間は短かった。通算成績は49勝41敗90セーブと、突出した成績を残したわけでもない。しかし、その生きざまは、死後19年がたった今も多くの人の胸に深く刻まれている。1年目に新人王を獲得。その後は数々の故障に悩まされたが、利き手の右手中指の血行障害などを克服。86年に抑えに転向すると「炎のストッパー」と呼ばれ、直球1本でライバル球団の主砲と名勝負を繰り広げた。チームメートとして、また監督として同じユニホームを着た山本浩二氏は「ホップするストレートが目に焼きついている」と、剛速球を思い浮かべた。

 選手として全盛期を迎えた津田氏を、病魔が襲ったのは91年だった。体調に異変を感じながら迎えたシーズン開幕直後の巨人戦が最後のマウンドとなった。当時、監督になっていた山本氏は「頭痛を我慢して登板した最後の試合は、ホップするはずの直球が沈んでいた」と、寂しそうに振り返った。翌日の検査で悪性の脳腫瘍が見つかり、93年に帰らぬ人に。山本氏は「入院した年は『ツネのために頑張ろうじゃないか』と、みんなの気持ちが1つになった。あの年の優勝は津田恒実のおかげ」と、感謝した。

 マウンドでの闘争心あふれる姿からは想像できないほど、家では優しい父親だった。リリーフに失敗した日も、絶対に家庭に仕事を持ち込むことはなかった。晃代夫人は「家族にあたったり、不機嫌になったりすることはなかった。ガッツをむき出しにしてマウンドで投げている姿は、主人じゃないような気持ちでテレビを見ていました。切り替えは大変だったと思いますし、それが主人の強さだったんだと思います」。強い心で、太くて短い野球人生を駆け抜けた。

 元気であれば、記憶だけではなく、記録にも残る名ストッパーとして語り継がれるはずだった。入団時の広島監督だった古葉竹識氏(東京国際大監督)は「野球選手として、これからという時だった。最低でもまだ7、8年は抑え投手として活躍できたと思う。記録的にも、もっと評価される投手になっていたはず」と、夢半ばで球界を去った才能を、あらためて惜しんでいた。【広瀬雷太】