<中日4-9DeNA>◇5日◇ナゴヤドーム

 頑固一徹な生き方で快挙を達成した。DeNA中村紀洋内野手(39)が、史上43人目の通算2000安打を放った。2点リードで迎えた8回1死一、二塁、中日中田賢から代名詞のフルスイングで左中間を破る2点二塁打。07年にテスト入団した中日の本拠地ナゴヤドームで、万感の思いで両手を上げた。

 全力疾走で二塁ベースに達すると中村は両手を突き上げた。ヘルメットを脱ぎ、DeNAと中日のファンに頭を下げた。悲願の記録は、長嶋、松井両氏の国民栄誉賞表彰式と重なった。「何とか避けようとは思っていましたが、打っていくうちに、早く達成したい気持ちに変わっていました。何とか達成できてよかったです」と、安堵(あんど)感が漂った。

 頑固に生きて、安打を積み上げた。渡り歩くこと日米6球団。「遠回りしたこともあって、もっと早く達成できたかもしれない、とも思う。でもそれがあって、今がある」。2度の引退危機など全ての経験を糧にした。

 気持ちを正直に表現する姿勢は、相手が誰であろうと変わらなかった。「特に若いころは思ったことをどんどん口に出していた。おかしいなと思うことは周りに、はばからずね」。ときには球団と衝突もし、移籍を重ねることにもなった。“問題児”と見られても、中村からすればその時々の思いに忠実だっただけ。「いい話より、悪い話の方がおもろいって、みんな思うでしょ。おもろいヤツがいるな、って見てくれたらいい。名前が出るなら、と割り切っていたよ」と振り返る。だから、移籍も、退団も「ベストだった」と言い切れる。後悔はない。

 自分流を貫く打撃も高校時代から大きくは変わらない。近鉄入団当時は、左足を高く上げるフォームを否定されコーチとケンカもした。5回にわたる左手首の手術で、握力は右の60キロに対して左は40キロ程度だが、「強く振らなければボールは飛ばない。一番強く、遠くに飛ばした結果がホームラン」。より強く振るため、常に狙うのが本塁打だった。

 その左手には1年半前から次女絵里香さんが編んだミサンガを付けている。切れたとき願いがかなうと言われるが、「ケガせず頑張ってほしい、って思いが込められていると思う。切れない方がいいね」。家族が見守る前で成し遂げた快挙。「1年でも長くユニホーム姿を見せたい」。プライドを胸に、フルスイングを貫いていく。【佐竹実】

 ◆中村紀洋(なかむら・のりひろ)1973年(昭48)7月24日生まれ。大阪市出身。渋谷高2年夏に甲子園出場。91年ドラフト4位で近鉄入団。00年本塁打、打点2冠。01年打点王。三塁手でベストナイン5度、ゴールデングラブ賞7度。01年最高出塁率(4割3分4厘)。シドニー、アテネ五輪代表。180センチ、93キロ。右投げ右打ち。家族は夫人と3女。今季推定年俸3000万円。<いろいろあった中村の野球人生>

 ◆金髪

 02年オフに「中村紀洋というブランドを近鉄で終わらせていいのか」とFA宣言し巨人、阪神、大リーグ・メッツと交渉した。当時の巨人渡辺オーナーの「茶髪嫌い」を知りながら金髪に染めて巨人と交渉。メッツ移籍の意思を固めながら、米国での報道先行などを理由に近鉄に残留。大リーグ機構とメッツが「落ち度はない」などと異例の声明を発表する事態に発展した。

 ◆ポスティング

 オリックスとの合併で近鉄球団が消滅することを受け、05年2月に入札制度でドジャースに移籍。メジャーでは17試合出場に終わった。

 ◆復帰

 06年に日本に戻ってオリックス移籍。左手首の「公傷」を巡って球団と対立し、契約更改交渉がまとまらず1年で退団。

 ◆テスト生

 07年、テスト生として中日のキャンプに参加。育成選手として年俸400万円で契約し、開幕直前に支配下選手契約。日本シリーズではMVPを獲得した。

 ◆6球団目

 10年オフに楽天を戦力外となったが現役続行を希望。交流戦期間中の11年5月、横浜(現DeNA)入団。