「打撃の神様」が逝った。元巨人監督で日刊スポーツ評論家の川上哲治(かわかみ・てつはる)氏が、28日午後4時58分、老衰のため、東京・稲城市の病院で死去した。93歳だった。1938年(昭13)に熊本工から巨人に入団し、選手時代には「打撃の神様」と呼ばれた強打者。監督時代には65年から不滅といえる9年連続日本一を達成するなど巨人の黄金期を築いた。戦前から高度成長期にかけて日本のプロ野球に大きな足跡を残し、92年には野球界から初めて文化功労者に選ばれた。戒名は「大徹院赤心哲山居士(だいてついんせきしんてつざんこじ)」。故人の遺志により、葬儀・告別式は30日に近親者で行われた。

 川上氏は、入院していた巨人のジャイアンツ球場近くの病院で息を引き取った。都内の自宅で長男貴光(よしてる)氏(67)が会見。貴光氏夫妻と妹の長女、坪井雅子さん(63)と病室でみとった場面を「本当に静かに、呼吸がすっと止まりました。眠るように静かに亡くなりました」と穏やかに語った。

 川上氏は90歳近くまで趣味のゴルフを楽しむなど、春先までは車いすにも頼らずに元気にすごしていた。だが、5月に東京・世田谷区の自宅居間で転倒し、肋骨(ろっこつ)を骨折。以後、持病の心臓病が悪化し、肺に水がたまるなどの症状が出て、治療に専念した。一時はリハビリで歩いたり、ボールを投げたりするまでに回復したが、老衰の症状が進み、28日夕、大往生を遂げた。

 戦前から高度成長期にかけてプロ野球を引っ張った。日本初のプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」の誕生から約3年後の38年に巨人入団。翌39年には初めて4番を打ち、史上最年少の19歳で首位打者を獲得した。42年秋、軍隊に入り、終戦直後は故郷熊本で農業に携わって、46年に巨人復帰。現役引退した58年夏に当時新人の長嶋茂雄に譲るまで4番に君臨した。174センチ、75キロの怪力自慢が放つ打球は鋭く、内野手の頭上を低く越える打球は新聞などで「弾丸ライナー」と描写されるほどだった。

 卓越した技術に磨きがかかって打撃に開眼したのは30歳のころだった。50年9月、スランプから脱しようと炎天下の多摩川練習場(当時)で打ち込んでいるときに「打つポイントでボールが止まって見えた」という。翌51年には10年ぶりに首位打者を獲得するなど打ちまくり、いつしか「打撃の神様」と呼ばれるようになった。現役時代の背番号16はのちに巨人の永久欠番となった。

 61年の監督就任からも、さんぜんと輝く実績を残した。1年目の春季キャンプを初めて米フロリダ州ベロビーチのドジャータウンで行って大リーグ・ドジャースの戦法を学び、カバリングや連係プレーなど「チームプレー」を持ち込んだ。シーズン中は罰金付きの厳しい門限など管理野球を徹底した。スコアラー制度の整備や補強のためのスカウト網の確立などにも尽力。「巨人・大鵬・卵焼き」が流行語になった61年から広岡達朗、森昌彦(当時)、長嶋茂雄、王貞治らを率いて14年間で9年連続を含む11度の日本一。強すぎて「アンチ巨人」という言葉が生まれるほどだった。

 監督を退いてからは全国を回って少年野球の普及に尽力し、野球教室は75歳まで約20年間続けた。文化功労者に選ばれた92年には「巨人入りした当時、プロ野球はまともな職業として評価されていなかった」と回想し、「野球が文化として社会的に認められたことが何よりうれしい」と感慨深げに語った。国民に夢を与え、日本プロ野球の礎を築いた人生を「ひたすら目標に向かって突き進んだ。わたしがやってきたのは『野球道』だ」と振り返っていた。

 遺骨は自宅からほど近い、龍雲寺の墓地に埋葬される予定だ。戒名は「大徹院赤心哲山居士」。「赤心」は「赤バットの意味と思われるかもしれませんが、実際は『素の心』という意味です」と貴光氏は説明。続けて「徹」は「何でも徹底するようにと教わって心の中に強くとどめていました」と明かした。今後については同氏は「しのぶ会のようなものをするつもりです」と話した。時期などの詳細は未定だ。

 ◆川上哲治(かわかみ・てつはる)1920年(大9)3月23日、熊本県生まれ。熊本工では甲子園準優勝2度。38年、吉原捕手とともに巨人入団した。打力を認められ投手から一塁手に転向し、39年には史上最年少の19歳で首位打者を獲得。「弾丸ライナー」が一躍知られるようになった。戦後は46年6月に巨人に復帰。「打撃の神様」と呼ばれ、47年からは大下弘(東急)の青バットに対抗して赤バットを使い、人気を二分した。58年に現役引退。現役時代の主なタイトルは首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回。最優秀選手3回。2年間のコーチを経て61年、巨人監督に就任し、65~73年に不滅の9年連続日本一を達成した。背番号16は永久欠番。65年野球殿堂入り。現役時代は174センチ、75キロ、左投げ左打ち。