元プロレスラーで、鬼コーチとして数々のトップ選手を育てた新日本プロレス顧問の山本小鉄さん(本名山本勝)が28日午前6時42分、低酸素性脳症で死去した。68歳だった。

 山本さんの突然の訃報(ふほう)に、新日本の黄金期を築いたプロレスラーたちが深い悲しみにくれた。1972年(昭和47)の団体旗揚げからの同僚、アントニオ猪木(67)は、29日の渡米前に「(天国に)旅立っていくのはさみしい」と、縁の下で支えてくれた盟友の死を悼んだ。弟分だった藤波辰爾(56)、愛弟子の武藤敬司(47)も大きなショックを受けた。29日の全日本両国大会で山本氏を追悼するテンカウントゴングが鳴らされた。

 盟友の死に猪木は寂しそうだった。渡米前の成田空港で「みんな旅立っていく。(山本さんが)旅立っていくのはさみしいね」と表情を曇らせた。最後に2人で話したのは引退直後の98年。約12年間、会話していなくても山本氏への感謝の気持ちは胸に残っていた。

 71年に日本プロレスから追放処分を受けた。その会見での一枚の写真を覚えている。「藤波、木戸は顔をそむけて写っていたが、もう山本はそこにいなかった。オレが新日本をつくろうと走りだしたら、ついてきてくれた」。海外遠征時には用心棒のようにガードしてくれた。「体格的に小柄で努力していた人間。引退後も『鬼軍曹』の役割を担い、その役割はプロレス界で必要だった」と功績の大きさを強調した。

 藤波は新日本旗揚げのころ、資金集めに奔走する猪木の代わりに、現場を仕切った山本さんの姿が目に焼きついている。道場建築の際に2人で練習代わりに敷地の石を拾い、鉄骨を運んだ。79年の結婚も故人の後押しで決断した。藤波は「実は山本さんの家から電話で家内にプロポーズした。翌日から米国遠征に行く時、山本さんの家で酒を飲んだ後に『プロポーズの電話をしろ』と背中を押してくれた。結婚して最初に呼んだお客さんは山本さんでした」と振り返った。

 29日の全日本両国大会では、武藤がリング上で山本氏の遺影を抱え、テンカウントゴングで送り出した。新日本入門時の面接官、道場でのコーチも山本氏で「オレらはコーチを受けた最後の選手」と話す。入門当初は猛練習に耐えきれず、1週間で山本氏に退団を申し入れたが、説得された。武藤は「小鉄さんに『もう少し待ってろ』と。その言葉があったから、今まで続けてこられた。存在が認められたのがうれしくて。それで今日の自分があるようなもの」と感謝の言葉を続けた。