横綱在位は19場所。68年春場所で現役を退いた。引退後は年寄「出羽海」を襲名して出羽海部屋を継承。横綱三重ノ海らを育てた。協会では92年から3期、6年にわたり理事長を歴任。外国人力士の入門規制、巡業の自主興行への変更などに着手。3期目からは協会運営に専念するため名跡を「境川」に変更し、部屋を元関脇鷲羽山に譲った。

 96年には年寄名跡を協会に帰属させ、名跡の売買を禁じるなどの改革案を提示。だが中堅や若手親方らの賛同を得られず、98年に理事長を退任した。00年には理事長経験者としては異例の審判部長に就任。03年2月に中立親方として相撲協会を定年退職した。

 昔かたぎの人らしく、市川氏の2代後に師匠として部屋を継承した現出羽海親方(元前頭小城ノ花)は「定年されてからは表に出てくる方ではなかった。部屋を継がせてもらってから1度もお会いしたことがなかった」という。弔問に訪れたり出棺を見送ったのも、現在と先代の出羽海親方、境川親方(元小結両国)ら限られた関係者だけで、周囲に配慮する故人の遺志が尊重されたようだ。