14歳の決断だった。のちに横綱玉の海となる愛知・蒲郡中3年の谷口正夫は、相撲で身を立てることにした。柔道の強豪校への進学を取りやめ、警察官になる夢も捨てた。自分は1日1食にして、4人兄弟を食べさせてくれた母ハルヨに楽をさせたい一心だった。相撲を知らない正夫だったが、1度決めたら気持ちが揺らぐことはなかった。

中学校の松井正一校長から「角界入り」を勧められて1カ月。59年2月になると、スカウトした二所ノ関部屋の幕内玉乃海が蒲郡までやってきた。正夫の精悍(せいかん)な顔つきと引き締まった体を見た玉乃海は、すぐに出世を確信した。

「君はいい目をしている。相撲の世界は、自分の力だけを信じていくところだ。厳しい勝負の世界だが、その目ならやっていける。修行はつらいが、努力すれば大関や横綱にだってなれるよ」

かすかに残っていた正夫の不安は、この言葉で吹っ飛んだ。反対していた母ハルヨも、最後には折れた。正式に二所ノ関部屋への入門が決まった。

角界入りを前に、正夫は2人の恩人と「約束」をかわした。1人は、蒲郡市内でかまぼこ屋を営んでいた竹内浅太郎。竹内は三河地方の草相撲で「糸島」というしこ名で横綱になった、玉乃海のタニマチだった。玉乃海と正夫の初対面を設定した竹内は、入門が決まると「お前が一人前になるまで、家族の面倒をみる。お母さんのことは心配するな」と申し出た。養子になったわけではなかったが、正夫は「竹内」姓を名乗るようになった。

もう1人は、蒲郡中柔道部師範の河原照夫だった。河原は正夫を柔道の強豪に育てあげ、わが子のようにかわいがっていた。正夫の強靱(きょうじん)な足腰を「第2の若乃花になれるぞ」と勇気づけていた河原は、故郷を離れる前に「誓約書」を書かせた。

一、どこにいても、故郷の母のことは忘れません。

一、どんなことがあっても怠惰の心を起こさず、わが道に精進します。

一、もし出世して経済的余裕ができたら、母のために家を建てます。

一、立派な力士になるまでは、絶対にタバコを吸いません。

男の約束を、正夫は裏切らなかった。故郷を離れて7年半。66年9月に22歳の若さで大関になると、約束通り蒲郡に立派な家を建てた。母ハルヨは涙を流して喜び、河原は大関になっても変わらない正夫に感心。机の中に締まっていた「誓約書」は、その時に焼き捨てた。

ライバルでもあり親友でもあった元横綱の北の富士勝昭(NHK相撲解説者)「彼はタバコも吸わず、派手な遊びもせず、まじめだったね。本当に母親思いでねえ。とても親孝行していたのに、お母さんより先に逝ってしまったらダメだよ…」

59年3月。正夫は玉乃海の「一番弟子」で、直後の春場所で新入幕が確実だった玉響(元前頭)の迎えを受け、蒲郡から大阪に向かった。6日の新弟子検査では白米と水をおなかに詰め込み、176センチ、73キロで合格。正夫少年は、スカウトした「玉乃海」と、竹内の草相撲のしこ名「糸島」を合わせて「玉乃島」となった(正式には「糸嶋」のため新入幕場所の64年春まで「玉乃嶋」だった)。太くて短い相撲人生は、出生地の大阪から始まった。(敬称略=つづく)【近間康隆】

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◆玉乃海代太郎(たまのうみ・だいたろう)本名は三浦朝弘。1923年(大12)1月2日、大分市生まれ。37年夏場所初土俵。幕下だった40年の中国・上海巡業で、酔って憲兵とケンカして破門される。戦後、破門を解かれ、50年春場所に幕下付け出しで9年半ぶりに復帰。52年秋場所、29歳で新入幕。57年に初めて行われた九州場所で、前頭14枚目ながら15戦全勝の優勝。「荒法師」と呼ばれ、やぐら投げなど豪快な投げ技を得意とした。最高位は関脇。三賞5回、金星9個。61年初場所限りで引退して年寄「片男波」襲名。横綱玉の海や関脇玉ノ富士(現楯山親方)らを育てる。87年9月27日、玉の海13回忌法要の朝に64歳で亡くなった。