あの人の教えがあったからこそ今がある。北海道にゆかりある著名人たちの、転機となった師との出会いや言葉に焦点をあてた「私の恩師」。女優高橋恵子(60=標茶町出身)の新たな道を切り開いたのは、演出家蜷川幸雄氏(79)だった。休業していた女優業から79年に復帰したが、その復帰舞台を途中降板。80年からテレビ、映画など多方面で活躍する中、舞台出演だけはなかったが、97年に同氏が演出担当の舞台「近松心中物語」のオファーが舞い込んだ。悩んだ末の18年ぶり舞台出演が、今につながっている。

 97年に蜷川さんが、声をかけてくださったんです。79年に、すっぽかして降板して以来、18年ぶりの舞台のお話でした。すごくうれしいのと驚きだったのを覚えていますね。舞台を降板した後、1年休業してから女優業を再開して、テレビ、映画などに出させてもらって。結婚して子どもも生まれましたが舞台だけはやれないでいましたからね。

 「近松心中物語」は、以前、平幹二朗さん、太地喜和子さんがやっていたのを拝見していて素晴らしい舞台だと知っていたので、できることなら出演したいと思っていました。でも、やっぱり舞台はやってはいけない、許されないと思っていたので、2度お断りしたんです。

 実は18歳の時にも、舞台のお話を頂いたことがあったんです。その時も映画出身だったし、舞台は怖いと思っていたのでお断りしたんですね。過去にもそういうことがあったのに、またお話を頂いて。夫(高橋伴明監督)もそこまで声をかけてくれるなら「チャンスだからやりなよ。家の事は僕がやるから」と言ってくれて、ようやく決心がつきました。もう時効だよと言われたのを覚えています。その時は止まっていた時間が再び動きだした感じでした。

 舞台初日は心臓の音が客席に聞こえるんじゃないかと思うくらい緊張していたんですが、客席から「高橋!」と声が飛んだんです。それで吹っ切れました。

 蜷川さんは厳しいですが、自分にもすごく厳しい人です。必ず稽古の2時間前にスタジオに入って自分の精神状態をフラットに保っています。役者さんと飲みに行くこともしない。もちろん、私も1回もないですよ。自分を律しているからこそ、あそこまで言えるんだと思いますね。

 舞台「天保十二年のシェイクスピア」(05年)では、悪女を演じたんですが、うまく演じることができなくて…。何を言われたか忘れましたが、すごく悔しくて稽古場の後ろで泣いたことがあったんです。その時、自分の殻を破りたいと思って、眉毛を剃って出たんです。そうしたら「そこまで覚悟したのか」とすごく喜んでくれて。そこから自分の中でも何か変わりました。家では夫に「怖い」と不評でしたけどね(笑い)。

 繊細な面もあるんですよ。(「近松-」の主人公の)梅川が最初に登場する場面は、さりげなく出てくるんですが、そこにスッと入ってきて立っている感じを「野に咲く花のように」と言ったんですね。ロマンチストだなと思いました。

 演劇に対しての情熱は今も変わらないですね。以前「青い部分をなくしたくないし、丸くなりたくないんだ」と言っていましたが、今もその通りやっているのは励みになるし、見習いたいと思いますね。

 舞台に出演するようになって、女優としての幅が広がりました。今は舞台が中心と言ってもいいくらいですからね。あの時、声をかけていただかなかったら随分、違っていたでしょうね。そういう意味でも今あるのは蜷川さんのおかげ。感謝は舞台人として認められる仕事をしていくことで伝えられれば。また、いつかご一緒したいですね。【取材・構成=松末守司】

 蜷川氏の足跡 1935年(昭10)10月15日、埼玉県に生まれる。開成高卒業後、55年に劇団青俳に俳優として入団した。69年に演出家デビュー。劇団現代人劇場、桜社を経て74年の日生劇場「ロミオとジュリエット」で商業演劇に進出した。現代劇からシェークスピア、ギリシャ悲劇と幅広い作品を手掛けた。演劇以外でも映画、テレビ、ファッションショーなどの演出を手掛ける。83年「王女メディア」欧州公演を皮切りに海外に進出、世界の「ニナガワ」とも呼ばれる。02年に英国の名誉大英勲章第3位を授与された。04年に文化功労者、10年に文化勲章。若手、ベテラン俳優にかかわらず、厳しい演出で知られる。

 ◆高橋恵子(たかはし・けいこ)本名同じ。1955年(昭30)1月22日、標茶町生まれ。小6から東京都府中市へ。70年に映画「高校生ブルース」で主役に抜てきされた。77年に引退宣言。79年に復帰も、舞台を途中降板した。1年の休業を経て80年に芸能界復帰。82年に映画監督の高橋伴明氏と結婚。代表作は映画「朝焼けの詩」「次郎物語」、ドラマ「太陽にほえろ!」「信長」、舞台「ハムレット」など。