「バタやん」の愛称で親しまれた歌手田端義夫(たばた・よしお)さん(本名・田畑義夫=たばたよしお)が25日午前11時45分、肺炎のため都内の病院で亡くなった。94歳だった。39年にデビュー、「大利根月夜」「かえり船」などのヒット曲で知られ、エレキギターを抱え、右手を挙げて「オース!」とあいさつするスタイルで人気を集めた。私生活では4回の結婚を経験。09年に歌手生活70周年を迎えた現役最年長歌手だった。

 田端さんは、09年に歌手生活70周年を迎えた際、記念アルバムにメッセージを収録するなど健在ぶりを示していたが、4番目の妻(61)の長女で田端義夫音楽事務所社長の宮田紗穂里さん(34)によると、翌10年3月31日に都内の自宅で転倒し、病院に搬送され、胃潰瘍が判明して入院。病状は一進一退を繰り返したが新曲やステージへの思いは消えることはなかったという。看病する家族や看護師に冗談を飛ばすなどして闘病生活を送っていた。5月22日に新アルバム「オース!

 バタヤン

 ソングコレクション」発売を予定し、ドキュメンタリー映画の公開も5月に控えていた。

 ところが4月24日に容体が急変。それまで何度か危機を乗り越えてきたが、深刻な状況を知らされた妻が家族を呼びよせた。翌25日午前11時45分、田端さんは家族にみとられて息を引き取った。宮田さんは「私は昨年結婚して現在妊娠中。孫の顔を見せられなかったことが残念です」と話している。葬儀・告別式は近親者のみで行い、後日お別れの会が開かれる予定だ。

 戦前戦後を生きた現役最年長歌手だった。鉄工所工員、薬店店員、菓子職人など職業を転々。新人歌手コンクール優勝後に上京し、39年「島の船唄」でデビューした。40年「別れ船」は「亡国の歌」として軍部から歌唱禁止とされたが戦後に同じ作家陣で「かえり船」を発表。戦地から帰国する兵士の心の支えにもなり大ヒット。歌謡スターに駆け上がった。

 低迷期には「島育ち」がヒットするまでキャバレー回りも経験。貧しい生活で得た人間性と大衆性への追求が独特のスタイルにつながった。「オッス!」の掛け声で観客との距離を一気に縮め、客席からは「バタやん!」の声援が飛んだ。伸びやかな高音の歌声、胸の位置で抱えるギター。どれもが個性的だった。最後まで現役、新曲にこだわり、「懐メロ」という言葉に反発した人でもあった。

 ◆田端義夫(たばた・よしお)本名・田畑義夫。1919年(大8)1月1日、三重県生まれ。38年、新愛知新聞社主催の新人歌手コンクール優勝、同11月ポリドールレコード入社。39年「島の船唄」でデビュー。戦後にテイチクレコード移籍。「大利根月夜」「ふるさとの燈台」「別れ船」「ズンドコ節」「島育ち」「十九の春」などヒット曲多数。「肉体の門」など映画にも多数出演。89年勲4等瑞宝章。91年に自叙伝「オース!

 オース!

 オース!」出版。04年から日本歌手協会名誉会長。163センチ、血液型B。<田端義夫さんの伝説>

 ▼小学校中退

 10人きょうだいの9番目。3歳で父親が亡くなり、生活苦で小学校は3年生までしか行けなかった。

 ▼失明

 子供のころ栄養失調となり、トラコーマ(結膜炎)で右目を失明。「見えない目のおかげで兵役を免れ、戦時中に歌が歌えた」と振り返った。

 ▼独特のスタイル

 板きれと木綿糸で、ギターを作った。自己流で指運びを特訓し、ギターを抱えるようなスタイルになった。

 ▼2オクターブ

 広い音域を保ち続けた。10代から20代にかけ、夜中に河原に行って声を出し続けたことが原点。

 ▼カムバック

 50年代から60年代にかけ長らくヒット曲が出ず、低迷。ピークには数千人いた後援会も8人に激減。

 ▼キャバレー

 低迷中のキャバレー回りも嫌がらなかった。「私を育ててくれたのは場末のキャバレー」ときっぱり。

 ▼ギャンブル好き

 79年、米ラスベガスのスロットマシンで約100ドルの元手から29万ドル(当時約6400万円)を当てる。

 ▼恋多き男

 うわさになった女性は多く、結婚は4回。