1カ月前、8月4日の夕刻だった。東アジア杯を取材中の中国・武漢で携帯電話が鳴った。なでしこジャパンと韓国の試合前。海外のため通知不可能と表示された電話の向こうは母親だった。伝えられたのは、祖母の急死。長期出張の多い仕事柄、常に気にかけ、恐れていたことが現実に起こった。祖母で大げさな、と言われるかもしれないが、4歳から10歳まで祖父母の家に預けられて育っている自分にとっては、母親代わりの大切な存在だった。

 83歳の若さだった。最後に会ったのは家族で長野へ帰省した4月。身体に悪いところは一切なく、足腰も丈夫。毎日、自転車に乗って走り回っていた。信じられなかったが、東アジア杯はまだ中盤。男女2試合ずつ残っており、帰国はできない。大会中に荼毘(だび)に付された。この仕事に限らず、社会人になれば仕方のないことだと思う。

 入社2年目の05年を思い出す。文化社会部の芸能担当だった当時、曽祖母が鬼籍に入った。この時は火葬に立ち会えたが、その最中、ある有名歌手が亡くなった。先輩記者から「すぐ現場へ向かえ」と電話があったが、忌引休暇中だと斎場から説明すると「取材対象が死んでるのに、個人的な葬式に出ているような人間は記者じゃない。今すぐ会社を辞めろ」と罵倒された。そんな組織だから、というわけではないが、東アジア杯が終わるまで誰にも明かさなかった。出張を全うする前に口にすれば言い訳みたいだし、仕事を投げ出して日本に帰る度胸もない。だから言わなかった。

 そんな自分と違い、強い人だった。ここからは、さらにサッカーと関係ない話になる。戦後70年の節目に祖母の人生を伝えたい。

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 満州事変のあった1931年(昭6)に長野の山奥で生まれた。6歳の時、当時の国策として旧満州(現在の中国東北部)へ送られる。日本が占領、建国した地への移住。いわゆる満蒙開拓団だった。約27万人と言われる日本人農業移民の一員として、全国最多の開拓移民を輩出した長野県から入植。「王道楽土」とうたわれたが、実態はソビエト連邦との国境に送られた「人の盾」。約束された平和は、そこになかった。

 終戦間際の45年8月9日。ソ連の大軍が満州に侵攻し、開拓団の逃避行が始まった。関東軍に見捨てられ、ロシア兵が迫り来る。祖母は8月27日に敗戦を知り、家を焼かれ、銃弾が飛び交う中を逃げ惑った。餓死、病死、凍死、集団自決。周囲の仲間が次々と倒れていく。想像を絶する環境の中、頭を丸め、ほほに墨を塗って軍服を着た。必死に男を装い、逃げ切った。

 所属していた「第7次中和鎮信濃村開拓団」は、約1100人のうち200人しか祖国の地を踏めなかった。両親と姉2人も、引き揚げ途中のハルビンで命を落とした。自身も病に倒れたが一命を取り留め、翌46年の秋に帰国。1年以上かけて長崎の佐世保に着いた。14歳。長野に帰った時は弟と2人だけだった。

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 サッカー元日本代表監督で、現在は四国リーグFC今治のオーナーを務める岡田武史氏は「いろんな経営者と会うけど、闘病や戦争を経験した人は違う。生きる死ぬの世界をくぐり抜けないと、あの迫力は出ない」という。一方の祖母は、全く平凡な一般人。特別な何かを持っているわけではない。ただ、孫の自分に壮絶な引き揚げ体験を語ってくれた時だけは、いつも独特の迫力があった。岡田氏が言う「遺伝子のスイッチ」が入りっぱなしの体験。だから自分も、子供のころ聞いた話を今でも覚えている。遺伝子に刻み込まれているのかもしれない。「風化させてはいけない」と。

 「今日死ぬか明日死ぬかの毎日」。祖母が地獄を見た満州=中国に自分が出張中に、訃報に接した。何の因果だろうか。東アジア杯の後に延期してもらった葬儀・告別式。祖母が44歳の時、戦後30年を機に筆を執ったという「敗戦回想記」を、一緒に引き揚げてきた弟(自分の大叔父)から渡された。満州から脱した様子が時系列で、極めて精細につづられている。新聞記者になって10年になるが、あんなに臨場感のある情景描写、書けた試しがない。物書きとしても、とても敵わない。あらためて尊敬し、いつか追いついたと言える原稿を書きたい。

 現在、U-22日本代表を担当している。同代表を率いる手倉森誠監督の亡き御尊父も、同じ満州から引き揚げてきた方だ。多くの先人がいたから、サッカーをできる人がいて、サッカーを取材できる人がいる。


 ◆木下淳(きのした・じゅん)1980年(昭55)9月7日、長野県飯田市生まれ。隣接する清内路村(現・阿智村)で生まれた祖母が、学費を一部負担してくれたおかげで早大に進学。4年時にアメフットの甲子園ボウル出場。04年入社。文化社会部、東北総局、整理部を経て13年秋からスポーツ部。鹿島担当。