以前よりもほおがこけたようにも見える。「確かに体重は落ちました」。日焼けが消え、真っ白になった横顔で、苦笑いする。
10月25日、大原サッカー場。クラブハウスの軒先で、浦和MF梅崎司(29)と2カ月ぶりに話をした。
火曜日、そして金曜日。全体練習を終え、家路につく選手たちと入れ替わりに、梅崎は大原に現れる。トレーニングルームに直行すると、野崎トレーナーの指導を受けながら、左ひざのリハビリをする。
8月31日のルヴァン杯準々決勝神戸戦。終了直前、梅崎はピッチに倒れ、立てなくなった。神戸MF藤田のドリブル突破に対処する中で、左足が不自然な角度に曲がった。
「倒れた瞬間、ああ、なんかしらやったなと思いました。せめて大きなじん帯じゃなきゃいいなと。でも実際には、夜中にだいぶ痛みが強まって、これはまずいかなと」
案の定、手術が必要になった。9月8日、術後にクラブは経過を発表した。左ひざ前十字靱帯(じんたい)損傷で、全治6カ月。今季絶望の大けがだった。
「でもそんな悲観的にはならなかった。今もなっていない。自分をつくりなおす。見直す。そういうトライをするチャンスだと。ケガをした夜から、そう思っていました」
◇ ◇
今季の梅崎は、先発の機会に恵まれずに来た。それでもチャンスに備え、常に万全の準備をしてきた。
午後7時開始のホーム戦で途中出場しても、試合終了後にクラブハウスに戻り、日付が変わるまで真っ暗なピッチを走っていた。
「先発組に比べて運動量が少ないから、何もしなければ彼らと比べてコンディションが落ちちゃうんで」。そう言って、努めて自らに負荷をかけ続けていた。
神戸戦は、そうして迎えたようやくの先発機会だった。そこで生じたまさかのアクシデント。しかし梅崎は「ケガしたことについては、自分の中で納得できています」と言い切る。
「久々の出番。死ぬ気で、命を懸けてやると決意していた。その心に、技術と体力がついていっていなかった」
懸命に準備するさまには、誰もが胸を打たれる。周囲の選手は「あれだけ頑張っていたウメちゃんがこうなるなんて悔しい」と唇をかむ。
しかし本人は、取り組む方向性自体が正しいものだったのかを、謙虚に見つめなおしている。
「ケガは必然だったと思う。100%でやれる状態じゃなかった。他に痛みがある箇所もあった。普段の練習から100%力を出し切ろうと思うあまり、追い込み過ぎていた。だから肝心の試合で、100%出し切れる状態じゃなくなった。少し浅はかだった」
痛みやコンディション不良の原因はなんだったのか。練習方針だけではない。身体の使い方。日常生活の中での身体の姿勢。そういったところから1つずつ見直し、修正する。
「毎日全力を尽くすというスピリットはなくしちゃいけない。ただ今の自分と会話することも必要。そして、大事なのは目先の未来だけじゃない。シーズン終盤の今の時期なんかは、チームにとってとても大事。そういうところも見据えて、我慢していい状態を保つことも必要だった」
心身ともに、自分をつくりなおす。その言葉通り、梅崎は長期離脱の時間の中で、自分と向き合う。
◇ ◇
半年にわたるリハビリは、とにかく地道な取り組みの繰り返しだ。
ひざが曲がる角度を、ほんの少しずつ増やす。立ち上がってバランスを保つ時間を、1秒ずつのばす。
進捗(しんちょく)を実感できる瞬間はほとんどない。多くの選手は「いつ元に戻れるのか」などといった不安にさいなまれる。
しかし今回の梅崎は前向きだ。左足首の負傷でリハビリ中のMF宇賀神が「どうしてそんなに明るくいられるのか」と聞いた。
すると梅崎は、事もなげに答えた。
「普通にプレーしている間にはできないことができる。患部外トレーニングもそうだし、サッカーの取り組み方について、じっくり考えることもできる。本を読む時間もたくさんある」
どこまでも前向き。宇賀神は「ウメちゃんと話したら考えが改まりました」とうなずく。
「かつてなく調子が良かった中でケガして、残念だった。優勝争いの中で試合に出られなくなって、正直かなりめいっていました。でもオレはせいぜい数週間のケガ。ウメちゃんに比べたらずっとマシなのに、めいってる場合じゃない」
3日のリーグ最終節、横浜戦に出場はできない。それでも宇賀神は、明るく言う。
「リーグチャンピオンシップを見据えて、今から時間をかけて調整できる。そう前向きにとらえたい。ウメちゃんを見習って、ウメちゃんのためにも頑張ります。そして絶対に勝つ」
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梅崎を前向きにさせるものは、もう1つある。
10月15日、ルヴァン杯決勝。宿敵G大阪を破り、10年ぶり国内タイトルを勝ち取った浦和の選手たちは、埼玉スタジアムのピッチに梅崎を呼び込んだ。
「正直なところ、試合前は『プレーできない決勝戦を見るのはどんな気持ちかな』と思っていた。でも実際はすごく熱が入った。1プレー、1プレーに絶叫し、ため息をつきました」
スタンドからは、梅崎の応援歌が聞こえてきた。感極まるのをこらえながら、何とか優勝杯を手に取り、頭上に掲げた。止めどなく、涙があふれた。
「最後のPK戦なんか、自分が蹴るよりはるかにドキドキした。優勝が決まって興奮した。すごくうれしかった。自分は純粋にこのチームが好きなんだと分かった。その気持ちに気づけたのは大きな発見でした」
だからこそ、このピッチに戻ってプレーがしたい。そう強く思った。
「出ていない選手のコールをしてくれるなんて、普通はないこと。こんなに自分のことを思ってくれている人がいるのは、人生の財産。誇りを持てる。だからこそ、これから未来をどうつくっていくかが大事。リハビリの道のりは長い。簡単には元に戻せない。でも焦らず、じっくりやっていこうと思っています」
年間勝ち点1位を懸けたリーグ最終節横浜戦も、しっかりと目に焼き付ける。心から応援する。そして気持ちを新たに、リハビリに取り組む。
◇ ◇
個人的なことだが、サッカー担当を離れることになった。取材の最後で、梅崎にもそう告げた。
すると梅崎は「必ず戻ってきて、また取材してください」と握手をしてきた。
言葉に詰まった。再びサッカー担当ができるとしても、いつになるのか。しかも相手は30を前に、選手生命を左右するような大けがを負っているのだ。
つい、目をそらしてしまったかもしれない。すると梅崎は、力強く記者の肩をたたいて、こう言った。
「男は30からですよ。オレのピークは、まだまだ先です。また取材してもらえたとしたら、その時はきっと、もっと元気にプレーしてますから」
はっとさせられた。次の配属は初めての野球担当。来年は40歳になるだけに「日刊スポーツ70年の中でもおそらく最年長ルーキー記録」と言われる。
すこし後ろ向きになっていたかもしれない。梅崎の言葉に、強く励まされた。
振り返れば、選手に気づかされ、教えられ、励まされることばかりのサッカー担当記者生活だった。
スポーツには、人を励ます力がある。多くの読者のみなさんに、それを伝える。担当競技が変わっても、やることは変わらない。
すっと視野が開けた気がした。記者も40からかもしれない。
そんな記者を見て、梅崎は去り際、ニッコリと笑った。今度は目を見て、再会を約す。「またいつか」。【塩畑大輔】
◆塩畑大輔(しおはた・だいすけ)1977年(昭52)4月2日、茨城県笠間市生まれ。東京ディズニーランドのキャスト時代に「舞浜河探検隊」の一員としてドラゴンボート日本選手権2連覇。02年日刊スポーツ新聞社に入社。プロ野球巨人担当カメラマン、サッカー担当記者、ゴルフ担当記者をへて、15年から再びサッカー担当記者。16年11月から野球担当記者。