プレーバック日刊スポーツ! 過去の11月9日付紙面を振り返ります。2009年の1面(東北版)は仙台J1昇格決定の記事でした。

 ◇ ◇ ◇

<J2:水戸0-4仙台>◇第48節◇2009年11月8日◇Ksスタ

 反骨心を胸に秘めた東北出身の無名監督が、J1の座を奪い返した。2位仙台が、昇格のかかる水戸戦に4-0で大勝。3位甲府が負け、4位湘南が引き分けたため、7シーズンぶりのJ1昇格が決まった。J2に降格した04年に仙台入りし、昨季から2年連続で指揮する手倉森誠監督(41)が再建。来季の続投も決定的になった。03年11月29日の降格から2171日。長い冬に別れを告げ、仙台に「春」がやって来る。

 勝利の笛が鳴り響いた直後、どよめきが起きた。他会場の結果が分かり、悲願のJ1昇格が決まった。雲間から光が差し込むピッチで手倉森監督が5度、宙を舞う。サポーターがピッチになだれ込み、選手から水を掛けられ、もみくちゃにされた指揮官は「ベガルタで仕事ができて本当に良かった」と感極まった。

 意地の昇格だった。3年契約の1年目を終えた昨季のオフ。契約交渉の舞台裏で、複数年契約を破棄するよう求められた。契約続行の一部条件は「放出危機の主力の引き留め」。MF梁や関口ら全員が残留し求心力を示したが、続投にもたつき「意味が分からない。辞めてやろうか」と荒れた日もあった。

 年が明けて今年2月。練習試合でかけられた、G大阪西野監督の言葉が支えになった。「いいサッカーをしても文句を言われるのが監督。いつか見てろって気持ちを持て」。手倉森監督は「ACLを制した人でも反骨心を持ってる。オレも逃げずに監督をやり続ける」と誓った。

 コーチとして仙台入りした04年以降、監督とぶつかりながら成長してきた。初歩的なボールの蹴り方から教えたベルデニック監督に「日本人をなめるな」と反発し「お前みたいな男は選手と口をきくな」と干された。サンタナ監督時代の06年には総額5億円強の補強が失敗し「外国人頼み」の戦術の限界を知った。だが「過去の失敗は無駄じゃなかった」と振り返る。04年のベルデニック監督から「ワンタッチパス」、05年都並監督から「多彩なポジションチェンジ」、前線のブラジル3選手以外の8人で守るサンタナ監督から「手堅い守備意識」を学び、今に生かしている。

 仙台史上、最も無名な監督の勝利。原点は「オレはJリーグで活躍してないから」という、大成しなかった選手時代にある。DF井原ら同期と比べ「W杯の経験とか出されたら勝ち目がない」という引け目。求心力を磨くために選手との対話を重視し「自分の言葉で雰囲気を変える」ことを心掛けた。J1鹿島の鈴木強化部長を通してオリベイラ監督の指導法も盗んだ。MF梁は今季の躍進を「メンタル面の安定が大きい」と分析。追いつかれての引き分けが減り、今季は連敗も1度しかなかった。

 来季は7シーズンぶりにJ1での戦いが待つ。試合後「強えぞ、このチーム。J1で早く戦いたい」と車に乗り込んだ手倉森監督。J1への再挑戦に今から胸を躍らせた。

 ◆ベガルタ仙台 88年8月、東北電力サッカー部として創部。94年10月、同部を継承しブランメル仙台を発足し、94年に東北社会人リーグを初制覇。翌95年の全国地域リーグ決勝大会で優勝しJFLに昇格した。98年にクラブ名をベガルタ仙台に変更。七夕に由来し織り姫のベガ、ひこ星のアルタイルの造語。99年のJ2初年度から参戦し02年にJ1初昇格、04年から再びJ2。白幡洋一社長。本拠地はユアテックスタジアム仙台(収容1万9694人)。

<J2降格から昨季まで仙台苦難の5年間>

 ▼04年(6位) 降格1年目。開幕7戦で1勝6敗と出遅れ、シーズン後にベルデニック監督を解任。2年契約の途中解約で1億円の違約金が発生し、エースFW佐藤寿人(現広島)の放出による移籍金1億6000万円で相殺。

 ▼05年(4位) 最終節で入れ替え戦出場を逃す。8月に田中GMの辞任が表面化。続投が伝えられていた都並監督も1年で見限られ、解任された。

 ▼06年(5位) 序盤はブラジル人3トップが大活躍したが、リーグ後半に失速。続投要請されていたサンタナ監督も一転、解任され、約5億円の補強費が泡と消えた。

 ▼07年(4位) 開幕11戦無敗(6勝5分け)で首位浮上も、勢いは続かず。10月に小長谷SDが解任され、望月監督も辞任。シーズン後にFW万代、ロペスら主力も流出した。

 ▼08年(3位) 2月の宮崎・延岡キャンプで一部選手の不祥事発覚。9月に名川社長の辞任が明るみに出た後、水面下での手倉森監督の交代劇も表面化。最後は入れ替え戦で敗退。

※記録と表記は当時のもの