日本サッカー協会会長、国際オリンピック委員会(IOC)委員などを務めた岡野俊一郎さんが2日午後10時56分、肺がんのため都内の病院で亡くなった。85歳だった。日本協会が3日、発表した。東京都出身で、東大で日本代表入り。代表コーチとして68年メキシコ五輪の銅メダル獲得に貢献。日本協会会長として02年W杯日韓大会を成功させた。日本オリンピック委員会(JOC)やIOCで要職を務め、広くスポーツ界のリーダーとして活躍した。通夜・葬儀は近親者のみで行う。

 日本サッカー、スポーツ界を支えてきた岡野さんが逝った。12年に肺のがんを明かしたが、ここ数年は取材に応じるなど元気な姿も見せていた。昨夏も「平昌五輪に行きたいけど寒そうだな」と笑いながら話していた。しかし、昨年11月に体調を崩して入院。11月末に病院に呼ばれた日本協会の田嶋幸三会長は「ご自分の死期を意識されているような話しぶりでした」。最後までサッカーとスポーツ界を案じていた。

 東大卒の頭脳と語学力などを生かし、早くから理論派としてサッカー界をけん引した。日本サッカーの父といわれるドイツ人のクラマーさんのもと、代表コーチと通訳を兼務し、64年東京五輪で8強入り。68年メキシコ五輪では長沼健監督のもと銅メダル獲得に貢献した。日本協会の川淵三郎最高顧問は「クラマーさんの教えは、全て岡野さんを通じて我々選手に伝えられました。そういう意味で“日本サッカーの伝道師”と言えるでしょう」とコメントし、その死を惜しんだ。

 テレビ東京の「ダイヤモンドサッカー」の解説者として普及にも貢献した。Jリーグの前身となる日本リーグ創設にかかわり、65年にはメディア露出のためにアイスホッケーの「アシスト」を導入。アイデアマンの顔も見せた。文学部出身らしく言葉も大切にした。豊富な知識で的確な発信を続けた。川淵氏が初代となったJリーグの「チェアマン」など、実は岡野さん発案による用語も多い。

 98年に日本協会の会長に就任し、前例のない共催で行われた02年日韓W杯を成功させた。活躍はサッカー界にとどまらず、JOC総務主事など歴任。90年から11年までIOC委員も務めた。これらの働きが認められ、12年には日本のスポーツ界では8人目となる文化功労者にも選ばれている。

 和菓子の老舗「岡埜栄泉(おかのえいせん)」5代目だったが、甘い物は駄目。酒を愛し、海外出張ではワインを片手にホテルのバーで要人と語らう国際派だった。日本サッカー界とスポーツ界は、また1人、大きな存在を失った。