<白鵬に至るSUMO道:2>

 後に弟弟子の小錦を大関に、直弟子の曙を横綱に育てた。外国勢、特にポリネシア系の道を開拓した先駆者。先代東関親方(71=元関脇高見山)は、64年東京五輪の年にハワイから来日した。「外国人力士が日本に来て2月23日で51年になるね」。誰あろう自分のことだ。「戦後20年かな。韓国や中国生まれで日本育ちの外国人はいたけど私が初めてだね」。初の「外国出身力士優勝」も果たし国際化に貢献した誇りを、先代は照れ笑いの中に包んだ。

 本名から「ジェシー」の愛称で親しまれた。オレンジ色のまわし、もみ上げ、200キロの巨漢。それでいて足腰のもろさから、アッサリ転がって負ける相撲っぷりも人気の側面。独特のしゃがれ声も相まって「CM横綱」としてテレビに引っ張りだこにもなった。

 入門時の苦労は半端ではなかった。「当時は確か23部屋ぐらいかな。私の高砂部屋は50~60人いた。兄弟子も親方衆も怖くて仕方なかった。稽古開始も夜中の3時台からだね」。白身魚が大嫌いで、ちゃんこ鍋はケチャップをかけることで克服したという。来日2年目に、へんとうを手術。その後の稽古でのど輪攻めに遭い声帯を痛め、あの声になった。股割りのつらさに涙した「目から汗が出た」の言葉は名言になった。

 白鵬の入門時は、自国のモンゴルはじめアジア系の先駆者がいた。先代とは全く境遇が違う。

 先代

 だから比較はしたくない。でも白鵬は立派。師匠を尊敬する心を持っているから。本当の父と日本の父(師匠)。日本を好きになり尊敬するからこそ強くなった。心もある。同じルールの中で大鵬さんの記録を抜いた。日本人も外国出身も関係ないよ。

 現役最後の一番で敗れ、花道を引き揚げる際、花束を贈呈されるほど愛されたパイオニアの思いは、半世紀が過ぎようとも脈々と受け継がれているはずだ。【渡辺佳彦】(つづく)

 ◆渡辺大五郎(わたなべ・だいごろう)1944年6月16日、米国ハワイ州マウイ島出身。64年春場所初土俵。67年春場所新十両で外国籍初の関取。68年初場所で新入幕し72年名古屋場所で初優勝。80年に日本国籍を取得した。39歳だった84年夏場所限りで引退するまで通算812勝845敗22休。幕内在位97場所、金星12個、連続出場など数々の最多記録(当時も含め)を達成。三賞11回。引退後は年寄東関を襲名し審判委員などを歴任。86年2月に東関部屋を創設し、09年6月に定年退職した。