珍名さんシリーズ第3弾である。

以前この欄で、球界の変わった名前の選手を取り上げてきた。なお、以下の2人がそろって所属した46年セネタース・47年東急・48年急映は、名称が変わっただけで同一球団である。現在の日本ハムだ。

◆一言多十(ひとこと・たじゅう)口数は多かったのか、あるいは少なかったのだろうか。人柄にまで思いをはせたくなる。46年の球団創立第1戦で先発投手も務めるなど、頭角を現した。プロ通算11勝。外野手としても出場し、新人年から2年続けて規定打席を満たした。二刀流選手として、大谷翔平の大先輩だ。50年には阪急にも在籍した。

◆熊耳武彦(くまがみ・たけひこ)プロ野球史上、名前に「耳」という漢字を使う選手はほかにいない。ユーモアあふれるプレーでも知られた。バッテリーを組んだ白木義一郎投手がゴロを捕ると、三塁に走者などいないのに捕手の熊耳に投げ返す。これを熊耳が一塁に送り打者走者をアウトにする。耳ではなく目を疑うようなスタンドプレーに、球場は沸いた。50年の大洋を最後に引退した。

このチームメート2人はそろって、名前にも負けない珍記録の当事者となっていた。球団がセネタースと名乗っていた1946年(昭21)4月29日の、中部日本(現中日)戦である。

先発の一言は大乱調。2回以降毎回四球を与える、散々なコントロールだ。6、9回に3四球。2回2四球、その他の回は各1四球。計13人を歩かせながら、1失点完投勝利を挙げてしまった。この失点は味方の失策だったから、自責点0のおまけつきだ。勝利投手の13与四球は、のちに94年野茂英雄(近鉄)が7月1日西武戦で16与四球で更新するまで日本記録だった。

珍名投手による珍記録を手助けしたのが、もう1人の珍名選手である。1回にセネタースは、相手先発の林直明から、1番の横沢七郎以下5者連続で四球を選ぶ。相手投手まで四球病だったのだ。1死後、珍名バッテリーを組んだ熊耳が適時打を放つなど、5点を挙げた。これが6-1の快勝を後押ししたのだった。

ところで、以前この欄で紹介した珍名さんに「赤根谷飛雄太郎」(あかねや・ひゅうたろう)がいる。名作野球漫画「巨人の星」の星飛雄馬の上をゆく、立派な名前の投手である。通算22試合に投げ2勝。飛雄馬のようにバットを狙ったりボールを消したりはしないまでも、やはり魔球のような変化球の使い手だったのだろうか。

この赤根谷は、48年急映・49年東急に在籍した。そう。一言多十、熊耳武彦、そして赤根谷飛雄太郎の3人は、48年の1年間だけチームメートだったのだ。

46年にセネタースとして誕生したこの球団の名称は、47年東急フライヤーズ、48年急映フライヤーズ、49~53年再び東急フライヤーズ。その後は東映、日拓を経て74年から日本ハムファイターズである。変わった名前の選手が集まる球団は、頻繁に名前を変える球団でもあったのだった。

04年から北海道へ移り、道産子に愛される人気球団へ育った。今季は低迷するファイターズ。個性あふれる大先輩に負けない、楽しい試合運びで挽回してほしい。

【記録室=高野勲】(スカイA「虎ヲタ」出演中。今年3月のテレビ東京系「なんでもクイズスタジアム プロ野球王決定戦」で準優勝)

熊耳武彦(1950年2月22日撮影)
熊耳武彦(1950年2月22日撮影)