野球を始めた小学校1年。私が父と祖父に買ってもらった野球帽は「ロッテ」と「中日」だった。茨城県水戸市出身の私の友人らは、ほとんどが巨人。阪神や西武がちらほら。異色? の理由を聞かれれば「村田兆治と小松辰雄が好きだからだよ。めちゃくちゃ速い球投げて格好いい」。こう答えていた記憶が鮮明に残っている。

特に「マサカリ投法」をまねたキャッチボールが、野球の楽しさを大きくしたと言っても過言ではない。私の投手人生の原点だ。周囲の誰よりも速いボールを投げられた感覚は忘れていない。フォークボールを投げたくて、授業中に人さし指と中指の間にボールを挟んだこともある。当然、担任の先生に見つかり、ボールは没収。職員室でしばらくは保管されていた記憶があるが、返却してもらった記憶はない。

あれから約40年。村田兆治さんとの初の出会いは突然だった。文化社会部時代の今年9月23日。デスクから「村田兆治が逮捕された。今すぐ行ってくれ」と命じられ、カメラマンと一緒に東京空港署へ向かった。羽田空港保安検査場で女性検査員への暴行の疑いで逮捕。同25日早朝に送検され、同日夕方に釈放された。容疑の真意は分からない。だが、迎えの車に乗り込む前に直立から腰を90度曲げて、約5秒間一礼し、謝罪する姿は「マサカリ」の姿にはほど遠かった。

11月から野球担当に異動となり、いつか村田さんが主催する「離島甲子園」を取材したいと思っていた矢先だった。11月11日早朝、東京・世田谷区の自宅火災により72歳で亡くなった。村田さんの自宅、野球場としてはプロ野球中継やニュース映像でしか見たことなく、「珍プレー好プレー」でスタンド観戦するカップルがキスしていたり流しそうめんを行ったりの印象が強かった川崎球場の跡地などの取材。中学時代にバッテリーを組んでいた東大アメリカンフットボール部で活躍する友人の応援で“川崎球場”を訪問して以来だった。不謹慎かもしれないが私にとっては“聖地巡礼”だった。

印象に残ったのは川崎球場跡地「富士通スタジアム川崎」の管理事務所に設置された献花台の前で、担当者から聞いた村田さんのエピソードだった。「以前にここでゴルフ雑誌の取材が村田さんにあったのですが、村田さんは断ったんです。『変わり果てた川崎球場は見たくない』という理由で。でも川崎球場当時の照明塔とフェンスの一部がまだ残っていることをお伝えしたら『それなら見に行く』と言って取材を受けられたんです」。その日の原稿に「変わり果てた村田兆治を見たくなかったファンが数多く献花台に駆けつけた」と打った。だが、「変わり果てた」という言葉があまりにも悲しく、消した。

来年1月10日。1954年(昭29)から使用され続けてきた川崎球場の照明塔2基は、安全上の理由もあって取り壊されることが決まっている。同7日には「さよなら照明塔イベント」が開催される予定。村田さんにスペシャルゲスト出演を打診する予定だったと言うが、マウンドでの活躍を照らしていた照明塔より先に旅立つことになった。同イベントは村田さん追悼の意も込める予定だ。

私の野球人生を導いていただき、有り難うございました-。献花台で飾られた写真やテレビ映像に手を合わせた。【遊軍 鎌田直秀】