門田博光さんには、幻に終わったトレード話があった。南海(現ソフトバンク)時代の80年オフに、阪神へ掛布雅之との交換が決まりかけていたことは知られている。その前年の79年シーズン後には、別の移籍計画が極秘裏に進められていた。相手先は、長嶋茂雄監督率いる巨人軍である。

門田さんはこの春のキャンプで、右アキレス腱(けん)断裂という重傷を負った。選手生命の危機に陥ったが、終盤戦に復帰。19試合に出場し2本塁打と、復活の兆しを見せていた。80年には32歳。守備の不安こそあるものの、故障さえ癒えていれば働き盛りである。

79年の巨人は5位に終わり、チーム再建が急務となっていた。その年限りで、ベテラン張本勲がロッテへ移籍。主砲の王貞治は翌年80年には、40歳を迎えるという年だった。その一方で、江川卓、西本聖、中畑清、篠塚利夫(後に和典)ら、後の優勝メンバーが育ちつつある状況でもあった。

門田さんを高く評価する巨人の首脳が、球団に獲得を進言した。ところがこの人物が退団したため、ご破算になってしまった。

「阪神だけでなく、巨人との話も流れてしまった。『お前はずっと、地味なところでやっていろ』という、天の声なのかなと思ったよ」

門田さんは後に、こう苦笑していた。89~90年にはオリックス、91年にはダイエーに移り、ホークス選手として92年に引退。パ・リーグ一筋の野球人生を終えた。

実は門田さんは、長嶋さんの大ファンだったのだ。プロ2年目の71年に、オリオールズとの日米野球が行われた。憧れの長嶋選手は、全日本のチームメートになった。10月31日の甲子園での試合前、ミスタープロ野球は門田さんをトス打撃に誘った。長嶋さんが投げて、門田さんが打った。

「あのカン高い声で『頑張りなさい』と激励されたんや。その言葉だけで10年は頑張れた。つらいときも苦しいときも、長嶋さんの言葉を思い出して頑張ったんや」

オリックス在籍時の90年5月20日西武戦で、長嶋さんと並ぶ通算1522打点目。門田さんは万感の思いをこう語っていた。

ところで前述のように、80年は王貞治選手の現役最後の年でもあった。門田さんが新人だった70年のオープン戦で、南海で選手兼任だった野村克也監督とともに対面。「ホームランはヒットの延長」と諭した相手でもある。これに門田さんが「2人で口裏を合わせたでしょう」と反発したのは有名な話だ。

長嶋、王、そして門田。仮にこの3人が同じユニホームを着ていれば…。長嶋さんは、かつて王さんが送った助言を繰り返しただろうか。それを受けて門田さんは、どう答えていただろう。対立を続けた野村監督ではなく、あの長嶋氏である。10年分の努力と忍耐を支えてくれた、憧れの大恩人である。

天下御免のフルスイングを封印し、しおらしく振る舞っていただろうか。それともやはり、本塁打狙いのわが道を貫いていただろうか。

あるいは長嶋監督は、門田さんを魅了したあのカン高い声で

「門田君、ブンブン振り回していいんだよ~」

と、お墨付きを与えていたかもしれない。それを聞いて王選手は、どんな顔をしていたことだろう。

こうして考えると、移籍が実現していれば、必ず誰かが何かを我慢する形になったようだ。幻に終わった、レジェンド大砲の巨人トレード計画。不成立は本当に、天の声だったのかもしれない。

幾多の逸話に彩られ、記録にも記憶にも残った打撃の名人である。そんなタラレバ話を、ぜひ門田さんに聞いてみたかった。聞いてみたい話は山ほどあった。その機会はもう、二度とやってはこない。

【記録室 高野勲】(89~90年オリックス担当)