記者が個人的に印象に深く残る試合、ドラマチックな試合などを「THE GAME」として紹介する。まずはセンバツ高校野球編。第1回は記録担当のベテラン織田健途記者が、1955年(昭30)の決勝、浪華商(大阪)-桐生(群馬)を取り上げる。松井秀喜(星稜)が5度敬遠された37年も前、4度敬遠された打者がいた。そして、勝負となった1打席にも物語が潜んでいた。

55年4月、第27回選抜高校野球で優勝した浪華商の4番、「坂崎大明神」こと坂崎一彦
55年4月、第27回選抜高校野球で優勝した浪華商の4番、「坂崎大明神」こと坂崎一彦

合言葉は「絶対敬遠」の試合があった。55年春の決勝。桐生の策士、稲川東一郎監督(当時49)は、準決勝まで4試合で1本塁打を含む14打数8安打(打率5割7分1厘)、8打点の浪華商(現大体大浪商)・坂崎一彦との勝負を避けた。決戦前夜、宿舎に「坂崎大明神」と書いた半紙を張ったという。触らぬ神にたたりなしの意思統一。全部敬遠を指示した。松井(星稜)が明徳義塾戦で5度敬遠された92年夏より37年も前のことである。

特別な警戒が必要な坂崎とはどんな打者だったのか。浪華商では張本勲の3つ上の先輩になる左打ちの外野手。ある日、坂崎の父が阪神電鉄の踏切で事故を起こし電車を止めた。阪神電鉄側は、いずれ入団するかもしれない選手の父親だからと損害賠償を請求しなかった逸話がある。プロでは巨人入団1年目の開幕6試合目に、18歳で5番に座った。21歳で出た59年の天覧試合(対阪神)では、王、長嶋とともに本塁打を放つ大物ぶりを見せている。

55年4月、第27回選抜高校野球で準優勝だった桐生・今泉喜一郎
55年4月、第27回選抜高校野球で準優勝だった桐生・今泉喜一郎

1、2打席目は敬遠。6回1死一塁の3打席目も歩かせるはずだった。ところが桐生のエース今泉(元大洋)にも意地がある。準々決勝の明星戦ではノーヒットノーランを達成していた。ウエスト気味の投球が2球ストライクになり、カウント2-2になって欲が出た。勝負した結果、坂崎の好きなカーブが内角に入り右翼席へライナーで運ぶ逆転2ラン。延長11回までもつれた接戦で重い2点が入った。さすがに4、5打席目は再び敬遠となった。

坂崎の持つ雰囲気、すごさは相手の談話でもわかる。逆転2ランの場面、一塁走者が飛球と勘違いしたのかベースに戻りかけ、坂崎が追い抜いたように見える微妙な走塁があった。アピール次第でアウトの可能性もある。桐生・石川部長の話。「追い越しには気づいていました。でも、あまりにも高校生離れした本塁打をたたえてやるべきだと思ったので、何も言いませんでした」。敵も味方もない。勝負を度外視して称賛するほかなかったのだ。

 
 

甲子園のヒーローはかつて投手ばかりだった。センバツでは紫紺の大旗が初めて箱根を越えた57年の王貞治(早実)、64年に海南(現海部)で優勝した現プロゴルファーの尾崎将司、4試合連続完封の65年平松政次(岡山東商)、大会記録の60三振を奪った73年江川卓(作新学院)らがいる。1試合で1本塁打、4敬遠の坂崎は、甲子園に金属バットが登場する以前(74年春以前)、貴重な打者の伝説になった。【織田健途】