10年前、津波から生還した。宮城・東松島市。野蒜(のびる)小野球スポーツ少年団の主将だった尾形凌さん(22)は、当時5年生で東日本大震災に遭った。

11年9月、野蒜小野球スポーツ少年団の4番を務めた尾形凌君
11年9月、野蒜小野球スポーツ少年団の4番を務めた尾形凌君

揺れの1時間後、ふとトイレに行って逃げ遅れた。学校の体育館1階ステージに登ったが「ドーンという爆音」とともに、扉を突き破り濁流が入ってきた。高さ3メートルの2階の足場下まで水かさが増し、1階で不気味に渦巻く。その中を洗濯槽のように流され、失った意識を取り戻した時には2階に引き上げられていた。

1階は動かなくなった人が浮いていた。2階では高齢者が低体温症で息を引き取っていく。「地獄」。ずぶぬれの自身も眠気に襲われたが、救われた。「野蒜小、ファイト!」と児童が叫び励まし合っていた。

8時間後に戻った自宅も床上浸水。車中で夜を明かした。翌朝。父嘉宏さんによると、車を出てがれきの中でバットを振っていた。震災2日後に、自分が主将になって初めての試合が組まれていた。「明日、試合あるんだもん」と信じて。

9月11日。震災後初の試合で尾形捕手は決勝打を放った。祖父母、両親、兄の家族5人を失った後輩が打席に入ると「ファイト!」。今度は純粋な応援ができた。試合後は「大好きな野球を(両親が)続けていいと言ってくれたんだ。プロになるね」と約束した。

復興支援の教室で元巨人駒田氏にスイングを褒められたことも自信に翌春、鳴瀬二中へ進学。1年から定位置をつかんだ。2年時に楽天が日本一。田中将投手や嶋捕手が好きで「泣いて喜んだ。本当に勇気ってもらえるんだ」と感動した。

高校は、12年に21世紀枠でセンバツに出場した石巻工へ。ただ、入ったのはボート部だった。「子供のころはプロと平気で言えましたが…」。一方で「津波の後も水の怖さはなかった」と漕艇場に通う。時にはサボって楽天の応援へ。ひと握り以外はどこかでプロを諦め、大人になっていく。

現在の尾形凌さん(22歳、会社員)
現在の尾形凌さん(22歳、会社員)

高校卒業後、大手通信企業に就職。初任地の福島・郡山市に住んで今月末で丸3年になる。年1、2回程度の草野球に「福島では楽天の中継があまり見られないんです」と笑うが、目標はある。東京オリンピック(五輪)。福島あづま球場は野球・ソフトボール会場で、稲葉ジャパンのエースとして田中将を見られる可能性も出てきた。

観戦チケットは外れ、ボランティアも落選したが、諦めない。勤務先が、あづま球場に運営補助を派遣することが分かり「全力で手を挙げています」。野球を見る側から、支える側の1人にもなれればうれしい。

「震災が『あって良かった』とは言えないけど、あの日があったから経験できたことや出会いがある」。津波から生き残り、今はファンとして野球を愛する。「子供ができれば野球をさせたいし、風化させないよう防災意識も受け継いでいきたい」。東北で生きる元球児の思いだ。【木下淳】

<尾形さんの10年>

11年3月11日 宮城・東松島で津波にのまれるも生還

同年9月11日 震災後初の試合。被災した22人の少年野球団員が1人もやめず残る

12年 鳴瀬二中に進学

13年 鳴瀬一中と統合されて鳴瀬未来中に。部員の合流で県大会常連チームに

同年11月 楽天の日本一に感動

15年 石巻工に進学。ボート部で最高成績は県3位

18年 通信大手に就職。現場の技術者になって丸3年

21年 東京五輪の野球会場で運営に関わることが目標