日本の野球界で金メダルを手にしたのは、84年ロサンゼルス・オリンピック(五輪)メンバー20人しかいない。その1人の巨人宮本和知投手チーフコーチ(57)の自宅には、今も金メダルが大事に飾られて…はいない。かつては当時の日本代表ユニホームの隣で額に収まり、自宅の玄関に飾られていた。今は自室の鍵の掛かる引き出しに入れられ、いつでも取り出せるようにしている。理由がある。「4年に1度、あいつ(金メダル)が営業してくれるんですよ」。

現役引退後から19年の巨人投手コーチ就任まで21年間、評論家やタレントとして活躍。「金メダルを見せてほしい」と依頼される機会が増えた。貴重な思い出の品だが、宮本は常に快諾した。野球教室にも進んで持参し、少年少女の首にかけ、手に持たせていった。

巨人では日本一も胴上げ投手も経験したが「野球人生で誇れるのは五輪で頂点をとったこと」と言う。当時はまだ20歳だったにもかかわらず、日の丸を背負った野球人としての自負と責任は、宮本の中で太い根を張っていた。「一生、自分の中の礎、支えにはなっていますよね」。

金メダルは幾度となく触れられ、見た目では金の色合いは薄れたという。宮本は逆に、それがうれしかった。「金メダルが銅メダルみたいになって、メッキがはがれてきちゃってですね(笑い)。でも、いいと思いますね。子どもたちの手に金メッキがついていったんだなと思うと、野球界の底辺拡大に少しは貢献できているのかな…と」。

84年5月の宮本和知
84年5月の宮本和知

37年前、左肘痛に耐えながら決勝のマウンドに立った。後の98年にメジャーでシーズン70発を放った歴史的強打者のマーク・マグワイアには自信のあったカーブで全球勝負を挑んだが、右前にはじき返された。喜びも悔しさも味わった五輪の経験を糧に、翌年から13年間もプロの第一線で生き抜いた。すべての下地には、ドジャースタジアムで金メダルを手にした「20人の侍」の1人としての矜持(きょうじ)があった。「金メダリストとして野球界の発展に、底辺においても励んでいきたい」。野球人として、この信念は、今も未来もぶらさないつもりでいる。

指導者としての夢がある。マグワイアとの対戦映像を見終えると、記憶の中でタイムマシンに乗り込んだ。「戻れるなら、今度は内角真っすぐのボール球から入りますね。カーブは最後に決める。当時は米国イコール『ベースボール』で我々は『野球』。どうしたらベースボールに勝てるかがテーマだった。今は『野球』と『ベースボール』が同じところにある。日本の野球は世界のトップにいると思うので今度は詰まらせたい。打って『かあ~!』って言わせたい。このポーズをさせられる投手を夢見て指導に当たりますよ」。

両手のひらを思い切り振りながら痛そうな表情を浮かべて笑う宮本の顔は、どこか誇らしげだった。【浜本卓也】(敬称略)

◆宮本和知(みやもと・かずとも)1964年(昭39)2月13日、山口県生まれ。下関工から川崎製鉄水島を経て84年ドラフト3位で巨人入団。97年に現役引退。通算成績は287試合で66勝62敗4セーブ、防御率3・60。19年から巨人にコーチとして復帰し、現在は投手チーフコーチ。