春日部共栄(埼玉)の硬式野球部を開校当時から45年間率いている本多利治監督(67)が、来年3月末で勇退する。生まれは高知・四万十。令和の今では高校野球界の主流となった「選手の自主性」を早くから重視した指導者でもある。「フッハハハハハハハハハッ」の高笑いに彩られた歩みを全4回でたどる。
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大音量のはずなのに心地いい。まるで故郷四万十の清流のよう。
「あそこはね、スポーツ関係とかの知ってる人の目が全然ない。ほんっっっとに気が楽ですよ」
本多監督の隠れた趣味は、ゲームセンターでコイン落としをすること。「地味~なゲームだけど、たまにコインが一気にドッカーンって落ちるでしょ。あれ、ストレス解消だよね。フッハハハハハハハハッ」。日々の苦しみ、つらさ。コイン入れの単純作業で気を紛らわせたこともある。
皆に敬われ、親しまれる名将だって、万事うまくいったわけじゃない。19年春はセンバツ出場を決めたものの、自身の不祥事で甲子園のベンチには入れず。「試合、女房と高知で見てましたよ。なんかこっちで見たくなくて」。
この秋は来春センバツ出場が近づいたかと思ったら「あと2人」から逆転負けされ、45年間の全ての公式戦を終えた。「あと1歩の人生だよなぁ」。
でも44年前の決意は今でも忘れていない。「新設校ですけど春日部に共栄っていう学校がありますよ。一生懸命やってます。全国の人、見てくださいね。それが目標だったんです」。胸を張って言えるだけの歴史を作ってきた。
プロ野球界にも人材を送り出した。「14人ですね。投手が9人。ソフトバンク行った村田が初めて中学硬式出身でしたね。あいつ、3年夏で引退してからあそこのゴルフ練習場でよく打ちっぱなししてたんですよ。フッハハハハハハハハ」。教え子の話をする時は本当にうれしそうだ。
かつては裏返しにされた「共栄」の名は、今や誇れるもの。ヤクルトでスカウト陣をとりまとめるOBの橿淵聡氏(50)は言う。
「春日部共栄は監督、1人しかいないので。みんなが本多監督の息子。進学して良かったと思いますし、卒業しても春日部共栄って胸張って言えるような学校を作ってくれた。本当に感謝しかないですね」
33年間も野球部長としてコンビで寄り添って理想を追ってくれた植竹幸一新監督(55)に、この先の春日部共栄を託す。「45年間。本当に一瞬でしたよ」。ただ67歳でも老いは一切意識せず、むしろ追っ払う。
「そんなこと考えてる暇ない。1日1日どう生きるか。気持ちなんか昔のまんま。67歳でも情熱だけなら誰にも負けねえぞって今でもやってるから。だから選手もそういう気持ちになる。それが心地いい。フッハハハハハハハハッ」
この先は。「寒いの嫌いだから沖縄で暮らしたい。真剣に物件探そうかな」なんて言いつつ「新しい名刺ができたんだよ」というそれには「黒潮町大使」と、愛する故郷への思いが肩書になっている。
選手たちが「こんにちは」と顔をのぞかせた。せっかくだから本多監督と一緒に写真を撮ろう。2人くらいに「共栄」のバッグを持ってもらって。
「よし、おまえら2人。あ、ちょうど(エースの)大野もいた。大野も来い。いいか、おまえら。これ新聞に載るんだぞ」
答えは言わない。行間だけで悟らせる。これぞ高校生の自主性を育む教えの神髄だ。ハイ、チーズ。
この上ない最高の笑顔が4つ、1発OKで並ぶ。そんな春日部共栄を、本多監督が作った。【金子真仁】(この項終わり)
◆本多利治(ほんだ・としはる)1957年(昭32)9月30日生まれ、高知県中村市(現四万十市)出身。高知高で3度甲子園に出場し、3年春に全国優勝。80年に春日部共栄監督に着任し春夏合計8度、甲子園に出場し、93年夏は準V。





