昭和から平成に移行した2年にわたり、球史に確かな足跡を残したチームがあった。88年10月19日、川崎球場でのダブルヘッダーで優勝を阻まれ、翌平成元年にパ・リーグを制した近鉄バファローズ。伝説の「10・19」からちょうど30年。あの熱狂とはいったい何だったのか。

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悲劇の「10・19」を経験した近鉄は翌89年(平元)、西武、オリックスとの三つどもえを制した。個性派集団を率いたのは就任2年目の仰木彬監督(享年70)だった。

コーチとして仰木を支えた中西太(85=日刊スポーツ評論家)は「頭がいい人だったね。監督として結果を出すことで分析力、決断力に磨きがかかっていった。三原さん、西本さんとの接点が監督としてのキャリアにつながったんじゃないかな」と、西鉄での現役時代から長い付き合いとなった相棒をこう評した。

中西の義父でもあった三原脩は巨人、西鉄などで魔術師と呼ばれた。西本幸雄は信念で阪急、近鉄を強化した情熱の人。戦後の野球界の発展に貢献した2人の名将に薫陶を受けた仰木は53歳で近鉄監督に就任すると変幻自在のタクトをふった。

「大人として扱ってくれた。門限なんてなかったしね」と話したのは「10・19」で最後の打者となった羽田耕一(65)。現在、母校三田学園の野球部で総監督を務めている。何より仰木自身が酒を愛し、アルコールを抜くための試合前のランニングは日課だった。「自分たちで好きにやってくれと言われていたから打席でサインも出してましたよ」と証言をしたのは2番打者だった新井宏昌(66=NHKメジャーリーグ野球解説者)だ。1番大石が出塁すると、バントやエンドランといった戦術の選択権を与えられていたという。能力、実績のある選手には自由度を高めることで力を最大限に引き出した。

マジックと呼ばれた選手起用の妙は過去の対戦成績を基本とするデータから生まれた。89年からコーチとして仕えた吹石徳一(65=日本新薬監督)は「監督室の机の上にはものすごい量のデータがあふれかえっていました」と驚いた。膨大なデータを試合ごとに分析。要点をメモ帳にまとめ、ユニホームのポケットにしのばせて適材を適所に適時起用した。

89年、優勝を決定的にした10月12日、西武球場でのダブルヘッダー。大一番を前にトレーナー室でマッサージを受けていた高柳出己(54=会社経営)は仰木と投手コーチを務めていた権藤博(79=野球評論家)との言い争いが今も忘れられない。

「第1試合の先発がぎりぎりまで決まらなくてね。2人ともすごいけんまくなんですよ。権藤さんは、早く決めろ! 仰木さんは、うるさい!」。一緒にマッサージを受けていた阿波野秀幸(54)は「きっとあのころはそんな時代だったんですよね」と笑った。優勝するために皆が必死だった。試合は第1試合に先発した高柳が西武打線につかまるが、ブライアントの3連発で逆転勝ち。第2試合もブライアントの4打数連続となる本塁打などで大勝し、平成元年パ・リーグ覇者へ大きく前進した。

阿波野は「10・19があったから翌年の優勝につながったのだと思います。優勝を決めた最後の打者はすべてストレート。横浜に移籍して日本一になったシリーズ第6戦のリリーフでも真っ向勝負。高沢さんとのシーン(スクリューを打たれた前年10月19日のロッテ戦)を思い出したのです。最後の最後、大きな勝負は自分の一番自信のあるボールで、ということを学びました」。そして「最後にちょっと」と自ら口を開いてこう付け加えた。「10・19に主役はいない。あえて言うなら近鉄というチームだった」と。

昭和から平成に移行する時代の節目に、酒を愛し、人を愛し、何より野球を愛した人間味にあふれたチームが存在感を示した、ということだろうか。(敬称略=この項おわり)【安藤宏樹】

89年10月、リーグ優勝を果たし場内を1周する仰木彬監督ら近鉄ナイン
89年10月、リーグ優勝を果たし場内を1周する仰木彬監督ら近鉄ナイン