平成の野球を語る上で、最重要人物が松井秀喜(44)だ。巨人の4番、球界の将来を担う逸材と期待され1993年(平5)にプロデビュー。長嶋茂雄監督から熱血指導を受け、日本を代表するスラッガーに成長した。03年からメジャーの名門ヤンキースの主軸として活躍。09年ワールドシリーズではMVPに輝き、世界一に貢献した。時代をけん引した強打者は今、何を考え、どこへ向かうのか-。新時代を前にした思いを探る。

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2009年(平21)12月。フリーエージェントとなっていた松井はヤンキースのピンストライプに別れを告げ、エンゼルスと契約を交わした。歴史と伝統を持ち、常勝を義務付けられた盟主とは、チームカラーも体質もまったく違った。

赤いユニホーム姿になじむのに、さほど多くの時間は必要なかった。同年齢のトリー・ハンターらの主軸とすぐ溶け込み、メジャー8年目がスタートした。

「当時、ヤンキースはエンゼルスになかなか勝てなくて強かった。『エンゼルスは強い』という、対戦してきたイメージで入りましたけど、本当にファミリー球団でしたね」

開幕戦に「4番DH」でスタメン出場した。1号アーチを放つなど、幸先よく発進したかのように見えた。ところが春先は調子が上がらず、5月には打率2割2分台を低迷。夏場以降、調子を上げたものの、打率2割7分4厘、21本塁打でシーズンを終えた。

同年オフ、再びFAとなった松井は、アスレチックスと契約した。アスレチックスで1年間プレーした翌年4月、レイズとマイナー契約。引き際は、着実に迫っていた。

ヤンキース以外の各球団に所属したことで、野球のスタイルだけでなく、組織としての違いも実感した。

「いい経験でした。各チームで力になれず、申し訳なかったですけど、チームによって特色があるのがすごく分かりました。将来に生かせるかは別ですけど…一野球選手として感じられたことは、財産になったと思います。外から見てるのと、中に入るのはやっぱり違うということです」

現役を退いた松井は、しばし「私人」に戻った。甲子園で注目されて以来、常にメディアに追われた生活が一変。ニューヨークを散歩する際、声を掛けられることはあってもカメラを向けられることはなくなった。13年3月に長男が誕生。穏やかな時間を過ごした。

「何もやってなかったですね。巨人とヤンキースで引退式をやってもらいましたけど、それだけです。子どもが生まれてそれどころじゃなかったですから。何となく“イクメン”のフリはしてましたけど…」

物心がついて以来、初めてともいえる野球と無縁の生活。異国の地で家族との時間を過ごすことは、かけがえのない貴重な充電期間だった。意図的に自らを野球から遠ざけていたわけではないだろう。興味を持てないのではなく、将来、再び野球と向き合うためにも、必要な時間だったのではないか。

「ほとんど試合は見なかったです。ヤンキースも巨人も、ネットのニュースで。せいぜいそれぐらい…辞めちゃうと『試合を見たい』というのが、ないんです。不思議なもので、自分がやっていると見ながらいろいろ考えますけど、辞めちゃうと全然、そういうのが頭にないんです」

松井は次第に、球界への恩義と自らに求められる使命を考え始めるようになる。(つづく)【四竈衛】

10年4月、開幕戦で右中間に第1号を放つエンゼルス松井秀喜
10年4月、開幕戦で右中間に第1号を放つエンゼルス松井秀喜